手続的正義

時代劇の中で,お金をもらって悪を討つ『必殺仕事人』は,法の目で見ればただの人殺しのはずですが,悪人の死という結果からみると,正義の味方であるとも感じられます。

それは,ドラマにおいて視聴者は神であり,神の目ですべての事実を正確に見通しているからです。

 

現実の我々は人であって神ではありません。

人は過ちを犯します。

自分には何が正義かが先にわかっていて,それに適えば正義,適わないと不正義だという発想は,人として傲慢のはじまりではないでしょうか。

 

人が得られるのはあくまでも「人の正義」であって,「神の正義」ではありません。

我々は,考えられる限りの過ちをひとつひとつ排除した慎重な手続を経て,公平中立に事実を捉え直した結果として,やっと「人の正義」に到達するのです。

こうして得られた「人の正義」は,事実のある一面を捉えただけかもしれませんが,そこに辿り着く過程が正義であることによって,多くの人が納得できます。これを「手続的正義」と呼びます。

 

正義と呼ぶに値しない手続の結果得られた結論は,もしかすると「神の正義」には合致しているのかもしれませんが,もはや「人の正義」ではあり得ないものです。

したがって,悪人を捕まえる警察が重大な違法行為をすれば,人の正義は成立せず,捕まった犯人は無罪となります。

 

弁護士は,一見すると正義の味方には見えないときもありますが,「人の正義」を真に価値あるものにするために,誰かがやらなければならない仕事なんだと信じています。

 
(『事務所ニュース 2006年2月号』より)