寄り添う心と支援の距離感

先月,一泊で金沢に出張してきました。

「犯罪被害者支援全国経験交流集会」というのが毎年あり,今年は金沢で開催されたのです。私は,埼玉弁護士会の犯罪被害者支援委員会委員として参加しました。

 

1月の金沢ですから,雪景色を期待して(寒さを覚悟して)行ったのですが,残念ながら雪は降らず。

とは言え,寒いことは寒くて,しかも初日は雨,というか完全に嵐で,ずぶ濡れになりました。

それでも,兼六園が夜間ライトアップをしていたので頑張って入ってみたところ,至る所に雪が残っいて,とても風情があるような,それどころではないような……。

 

 

さて,今年の被害者支援交流会のテーマは,「外国人被害者に対する支援活動」でした。

刑事弁護・刑事裁判の観点から制度改革の必要性を指摘される司法通訳の諸問題が,この犯罪被害者支援の分野でも,やっと取り上げられるようになりました。

 

パネルディスカッションで,たまたま外国人被害者ご遺族の担当になったという警察官の方が,面白いことを言っていました。

 

 

彼は,外国人の被害者のご遺族が日本に滞在した数十日間,毎日朝から晩までつきっきりであらゆる手を尽くして支援に努め,最終日には,何もかもできることはすべてやり切ったという気持ちで,ご遺族を空港まで見送りました。

そのとき,不覚にも彼の中で,「ああ,これは感動の別れの場面になるだろうな」という,ある種の予感があったそうです。

 

そして,空港での別れのシーン。

 

ご遺族たちは,何の名残惜しさもなくスタスタと帰って行ったそうです。

 

笑いを交えて語ってくれた話でしたが,そのとき彼の考えたことは,さすがにプロでした。

曰く,

「当たり前じゃないか。被害者やご遺族は,『日本で』殺されたんじゃない。『日本に(日本人に)』殺されたんだ。だから私たちは,日本国として,日本人として,もっともっとできる限りのことをしなければならない。」

そのような思いを,かえって強くしたそうです。

 

 

一方,同じパネラーの通訳人の方から,こんな話がありました。

 

彼女は,捜査通訳人として,被害者のご遺族である外国人の事情聴取を通訳した際の体験として,

「自分なりに,被害者に寄り添う気持ちを精一杯込めて通訳できたのが良かった。」

と,嬉しそうに何度も語りました。

 

残念ながら,こちらは違和感の残る発言でした。

 

もし,外国人被告人の公判を担当した法廷通訳人が,「えん罪を確信していて,無実を晴らそうという気持ちを精一杯込めて通訳した」と述べたら,どうでしょうか。

あるいは,外国人被疑者の取り調べを担当した捜査通訳人が,「有罪の確信(コイツがやったに違いないという気持ち)を精一杯込めて通訳してやった」などと語ったら,さすがにおかしいと思わないでしょうか。

 

通訳人といえども人間ですから,当然,心は動くでしょう。

まして,無罪を推定される立場の被疑者・被告人と違って,被害者やそのご遺族の場合,その人が被害を受けたという事実には疑う余地がない,ということも多いのです。

 

しかし,それでも,プロの通訳人である以上,動く心を抑えて正確な通訳に徹したことにこそ,喜んでほしい。

少なくとも,限界までその努力をしたという体験を語ってほしかったと思います。

 

 

 

同じ司法通訳の問題点について,私は主に刑事弁護の立場から専門的な研究を続けています。

 

金沢行きの少し前,昨年12月には,日弁連主催の「実践 法廷通訳と弁護技術 スキルアップのための研修会」で,司会進行役を努めました。

この研修は,弁護人と通訳人の協働という観点から法廷通訳技術を高めあおうとするもので,一昨年の研修会に続いて,大変な盛況となりました(ご興味のある方は,2014年9月7日のブログ「 法廷通訳の新世界へ! 」も参照ください)。

 

内容的には初歩から中級くらいのレベルの研修でしたが,弁護士が笑っちゃうほど下手くそな実演をしながらの講義で(実演役の先生方,ごめんなさい!),それはそれで印象に残るし,大変面白かったのではないかと思います。

中級までのレベルとはいえ,学術的な研究成果や通訳人倫理などにも触れながらの講義は,学ぶところの多いものでした。

 

それと比べると,外国人犯罪被害者の支援活動の中で語られる通訳問題は,実践と研究がまだ圧倒的に不足していると感じました。

 

 

もちろん,それは仕方のないことなんです。

 

もともと,日本では外国人の刑事裁判が比較的少ないからこそ,予算が回らずに,諸外国よりも司法通訳制度が立ち遅れているわけです。

まして,外国人が被害者になる事件の数なんて,さらに少数もいいところです。

どうしても,制度的に置き去りにされる危険が高いと言えます。

だからこそ,様々な専門家がそれぞれの立場で,積極的な「支援」をすることが必要なわけです。

 

私にできることはごくわずかですが,今後もできる範囲で「支援」を続けていきたいと思います。