誰のために「赦す(ゆるす)」のか

私は刑事事件を専門分野のひとつとして取り扱っているため,刑事弁護人の立場あるいは被害者支援の立場で,常に多数の犯罪事件に関わっています。その中で,特に犯罪被害者の方々と直接向き合うときには,弁護人であるときも被害者代理人であるときも,同じく特別な想いを抱きます。

 

私に限らず,何らかの形で刑事事件に関わる弁護士の想いが一番形になって現れるのは,なんといっても示談の場面でしょう。

刑事事件と向き合うその弁護士の想い(もっと率直な言葉で言い換えれば「真剣さの程度」)によって,示談の形も結果も意味も,大きく変わります。

 

 

法的に「示談」とは,民事上の債権債務の不存在を確認すること(通常,一定の示談金を支払うことで,それ以上の損害賠償請求権を放棄するという約束をすること)です。

示談に付随して,被害届の取下げや告訴の取消しを行うこともあります。

 

それと同じことのようでもあり,違うようでもあるのが,「赦す(ゆるす,許す)」ことです。(より難しい専門用語で「宥恕(ゆうじょ)」とも言いますが,経験豊富な弁護士は,あえてこの言葉を使いません。)

 

 

よく誤解されていますが,被害者は,別に犯人のことをちっとも赦してなくても,示談していいし,お金を受け取っていいし,告訴を取り消してもいいのです。それは被害者の自由ですし,当然の権利でもあります。

そのことをきちんと説明できない弁護士では,せっかくの被害回復の可能性を狭めてしまいます。

また,そういう意味では,「赦し」それ自体は法律問題ではない(法的には不要)と考えられていると言ってもいいでしょう。

 

もちろん,被害弁償や示談などの結果として,犯人の刑罰が軽くなる可能性はあります。

だから,赦していないのに示談するなんて嫌だというのも,人として当然の気持ちです。

示談が刑事罰にどのような影響を与えるのか,あるいは与えないのかを,正確に見通して説明できることが必要です。

 

 

 

しかし,赦すことには,こうした法律上の効果を超えた意味があります。

 

 

私は,被害者が犯罪によって受けた苦痛から回復し,心の傷が修復されていくためには,3本の蜘蛛の糸があると考えています。

 

第1の糸は,「時間」です。

第2の糸は,「赦す」という感情です。

第3の糸は,「謝罪と弁償」です。

 

 

「時間」は,誰にも平等に訪れます。他の何がなくとも,時間だけは被害者の味方になり得ます。

もっとも,あまりに大きすぎる被害では,時間さえ,限りない苦痛そのもののように思えることもあります。

 

「謝罪と弁償」は,犯人側との関係です。それだけに,被害者側が得ようとして得られるとは限りません。

そこでは,刑事弁護人の役割が極めて重要になります。

ただ,仮に得られたところで,それが被害者の心の修復に結びつくとは限りません。

 

「赦し」は,最も困難な道です。ほとんどの場合,それは不必要で不合理で不可能な選択のように思えます。

けれども,赦しは同時に,被害者が,自分で自分を取り戻せる唯一の道でもあります。

 

被害者が,弁護人を通じて示談の申し出を受け入れ,かつ,犯人を赦すということは,すなわち,受けてしまった犯罪被害に対して,自らの意思でひとつの決着をつけたことになります。自分の心の中で,その事件を終わらせたということです。

赦すという行為は,その瞬間には苦しすぎる試練と感じる選択ですが,その後の人生の中で,自らの犯罪被害という経験の意味や重さをまったく変えてしまうことになります。

 

もちろん,なんでもかんでも赦せばいい,赦すべきだなんて話ではありません。そんな簡単なものじゃありません。

特に,もう2本の蜘蛛の糸をつかめないうちに「赦し」の糸だけを選び取れるかと言われれば,それは普通の人には無理でしょう。

 

 

「赦し」は被害者自身だけに選択を許された道であり,第三者から与えられる「癒し(いやし)」ではありません。弁護士がお手伝いできることも,わずかです。

けれども,もしも,適切な示談等の過程を通じて,それに加えて「赦す」という気持ちを持てたとしたら,それは,単に高額の被害弁償金の授受があることよりも遥かに価値のある結果になると思います。

 

実際に私は,赦すことを通じて被害者が自らの力で癒されていく希少な場面に,これまで何度か遭遇してきました。

 

 

赦すのは,犯人のためではありません。自分自身の心と人生の美しい価値を守るために,赦すのです。

 

 

 

最近読んだ本の中に,たまたま,こんな一節がありました。

 

 ~ 自分の幸福のために,相手を「許す」 ~

 あなたをひどい目にあわせた人間を憎んだままでいると,その憎しみにあなたはとらわれ続けてしまいます。あなたの心の傷は,被害者意識というかさぶたの下でずっと膿をもったままになりかねません。

 「許す」とは,実際に起こった事実を受け入れることを意味するのではありません。「許す」というのは,その事実がもたらす不運が,あなたの人生を損なうことを「拒否」することなのです。自分の幸福のために許すべきなのです。

(ドミニック・ローホー/「『限りなく少なく』豊かに生きる」より)