わかりやすさの落とし穴

何でも「わかりやすい」ことを要求されるのが最近の傾向です。


いわゆる二項対立構造の問題点を指して「分かりやすさの罠」などと呼ぶ場合もあって,それはそれで大問題なのですが,ここで言う「わかりやすさ」は,もっと単純に,説明や話し方が明快で,漫画的で,あっさりしていることです。

テレビ番組や雑誌はもちろんのこと,かなり専門分野の書籍でも,図や色彩や文字の大きさから,パッと見てわかりやすそうに感じられないと売れないそうです。


わかりやすいのは一見すると良いことなのですが,かみ砕くほど中身は薄くなり,厳密さを失って,細部は不正確になります。

わかりやすいがゆえに,不十分・不正確な理解のまま,なんとなくわかった気になることの怖さもあるのです。


もっと悪いことに,人は「わかりやすさ」を良しとするあまり,「わかりにくさ」を憎むようになります。

しかも,わからない自分ではなく,わかりにくい相手を。



裁判員裁判でも,裁判員にとって「わかりやすい」ことばかりが強調され,証拠の厳密さや説明の細かさが憎まれる傾向があります。

「みのもんたみたいに(TVのワイドショーのように),もっと簡単に説明できないのか」などとおっしゃる人も,時々ですが,いらっしゃいます。

わかりにくいことが忌み嫌われる結果,わかりにくいと思われた側に不利な心証をもたれてしまうこともあり得ます。

(したがって,裁判員裁判での刑事弁護や被害者参加を依頼する際は,必ず裁判員裁判の経験を積んだ弁護士に依頼するべきです。)


ただ,この傾向は裁判員の方々よりも,どちらかというと裁判官のほうに強いようなのです。


もともと法律の素人である裁判員の方々にとっては,わかりにくいことはある意味で当たり前です。ほとんどの方は,たとえ少し難しく思えても,頑張って理解しようと懸命な努力をされています。

ところが,裁判官は違います。自分たちは法律をわかっていますし,刑事裁判の手続にも慣れていますから,裁判員の方々の理解が自分たちになかなか追いついてこない場合,そのフォローのために時間を奪われ,気を遣い,評議の進行に大変な苦労をすることになります。

その恨みが,(裁判員にとって)わかりにくい(であろう)話し方をした検察官や弁護士に向かいがちになるです。


裁判員裁判を傍聴していて,裁判長が,検察官や弁護人に対して進行についての文句を言う場面は,ほとんどそれです。

やれ「予定時間を過ぎている」だとか,やれ「質問を絞って短くしろ」だとか。

裁判員の方々は,裁判長が一体何に怒っているのかすら分からず,キョトンとしています。



わかりやすさを追求した結果,表面的な理解と薄っぺらな議論ばかりが喜ばれるような社会には,ならないでほしいと思います。