埼玉・東京エリアを中心に活動する弁護士吉岡毅の本音ブログ「法律夜話」の過去ログです。このページでは,2017(平成29)年のブログ全話を通しでお読みいただけます。
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※法律夜話の一番古い記事「手続的正義」(2014年4月2日)に飛んでから,各記事の下部の「次の記事へ進む」を順に追いかけていくと,過去のすべての記事を,一話ずつ読み進めることもできます。
「人生の歴史において、ある人が、他のある人々と結び付いてきた法律的な絆を手放し、さらに広い世界の人々の間で、あらゆる法によって与えられる独立平等の地位を占めることが必要となったとき、全世界の人々の意見を真摯に尊重するなら、その人は、自分が独立する理由について公に明言すべきであろう。
わたしは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人は生まれながらにして平等であり、自ずからにして、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。
こうした権利を確保するために、人々の間に法律事務所が樹立され、弁護士は依頼する者の合意に基づいて正当な代理権を得る。
そして、いかなる法律事務所であれ、弁護士がその目的にかなうためのさらに素晴らしい組織を生み出すことができるようになったときには、人はその弁護士に独立を求め、新たな法律事務所を樹立し、人の安心と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人の安心と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の新たな法律事務所に依頼する権利を有するということ、である。
そしてその権威において、以下のことを厳粛に公表し宣言する。
すなわち、――わたし、独立します。」
……えー、つまり、わたくし弁護士吉岡毅は、このたび2017年3月27日(月)をもって独立開業することとなりましたので、ご報告いたします。
弁護士となって早12年目(11年半)、弁護士としての第一歩を踏み出して以来、ながらく経営弁護士としての人生をともに歩んできた「浦和法律事務所」を離れ、JR京浜東北線の北浦和駅西口前(徒歩1分の場所)にて、新たに『アネモネ法律事務所』を開所いたします。
昨年終わりころから開所準備に追われていたため、ブログ『法律夜話』の更新もおろそかになってしまいました。申し訳ありませんでした。
(予想外にフラフラになって、立て続けに大きなケガをしたりもしました。)
近く、このサイト『法律夜話』も、リニューアルする予定です。
ブログも再開しますので、引き続きご愛読ください。
さて、アネモネは、春に咲くとても綺麗な花です。
その名は、ギリシャ語で「風の花」を意味します。
ギリシャ語の「風(アネモス)」は、ラテン語の「生命、息、心、魂(アニマ)」と「意志(アニムス)」の語源でもあります。
アネモネは、意志と生命の風を吹き込まれた特別な花なのです。
たくさんの色と種類があり、花言葉も多いのですが、その中に“真実”と“希望”という二つの言葉がありました。
これを見た瞬間、わたしの中で「真実を希望に」変える『アネモネ法律事務所』が、もう出来上がっていました。
というわけで、最初に書いた意味のよく分からない文章は、1776年7月4日の「アメリカ独立宣言」のパロディです。
単純に語感が似ていたので、思わずパクりました。
ちなみに、独立宣言の原文は、もっと分かりにくいです。
よく、日本国憲法が英語の翻訳だから悪文だとか、分かりにくいとか言う方がおられますが、そうじゃないと思います。
独立宣言だって、十分、分かりにくいですよ。あ、翻訳文としてではなく英語原文でも、という意味です。
天下の名文と言われる「出師表」(三国志の蜀の軍師・諸葛亮孔明が、主君劉禅に北伐を説いた上奏文)だって、分からない人には何のことやらまったく分からないです。
その内容の価値を認めない人が、文章だけを評価することは不可能でしょう。
流行の小説について、「面白いけど軽薄で中身がない」などと評する人もいますが、面白いならその文章には面白いと思わせるだけの価値があるはずです。面白いと思わない、というのならわかりますが。
わたしは、美しいだけで中身のない文章など、基本的に存在しないと思っています。
絵画なら、美しいだけで、それ以上のメッセージ性がなくても評価できます。というか、美しいということが最大のメッセージなワケです。
しかし、文章は、人に意味を伝えるためにあります。ただ美しいだけ、というワケにはいかないのです。
それは、おそらく、たった一文字の「書」であっても同じでしょう。
そこが、絵画と文章の違いです。
けれど、なにごとにも例外はあります。
中身を考えるまでもなく、というか、考えることが許されないくらいに、ただただ美しい文章も存在します。
それが、「大手拓次」の詩です。
独立を記念して、大好きな拓次が「わが最初にして最後の里程標なり」と書いた傑作、『風の言葉』の一節を、美しい風の花「アネモネ」に捧げます。
……
風は 微笑の丘をきずつけて めぐり
うつうつとした うまれない花の幻を うばふのだ。
風は ところもあらず しろいかげをよびかはし、
まよひゆく ひとみのやうな大空をゑがくのだ。
風は とぎれとぎれに はなれゆき、
すがたもない 心のたそがれを みおくるのだ。
風の脚は くさのあひだに いざよひ、
また みづのおもてに 眠り、
はつるところなく その波立てる小径をあゆみ、
うすぐもる 黄金の鐘を 鳴らすのだ。
(『大手拓次詩集』/岩波文庫)
アネモネ法律事務所についての詳細は、コチラのHPをご覧ください。
新事務所での業務開始は3月27日からとなりますので、ご注意ください。
皆様、アネモネ法律事務所と弁護士吉岡毅を、今後もよろしくお願いいたします。
世の中は、ゴールデンウィークですね。
例年、GWには長期休暇をいただいてリフレッシュを図ることが多かったのですが、独立したばかりの今年は、暦通りの業務です。
というか、休日に入ってもお仕事続き。今年に入ってから、まだ一日も休みという休みが取れていません。
独立のための諸事情もありますが、ありがたいことに独立後も今まで通りたくさんのご相談、ご依頼をいただいていて、とても充実感のある忙しさを味わっています。
でも、このGW中に少しくらいは休んで、久しぶりに美術展や映画でも楽しみたいところです。
美術と言えば、アネモネ法律事務所のロゴマーク、いかがですか!?
ちょっとアールヌーボー的で、ちょっぴりアルフォンス・ミュシャの雰囲気があると思いませんか?
というか、そういう雰囲気になるようにと願って作ったものです。
自分でもとても気に入っているのですが、中央に配置されたアネモネの花のシルエットラインがかなり細かくて、印刷などでは結構気を遣います。
ちなみに、はじめてこのロゴを見たある先輩弁護士から、
「このマーク、かっこいいね~。で、この真ん中にあるアライグマのマークは何?」
と尋ねられました。
えー。
アネモネなんですけど。
アライグマって。
全然関係ないし……。
ぜったい、「かっこいい」とか思ってないよね、あれは。
しかし、だいぶ酔っ払っていたとはいえ、どうやったらアライグマに見えるのだろうか???
人間の視覚、知覚というのは、とても不思議です。
最近も、人によってまったく違う色に見える画像とかが話題になりました。
わたしの「赤」とあなたの「赤」が同じだという保証は、この世のどこにもありません。
というより、ほぼ100%の確率で、違う色でしょう。
もし誰かと視覚をまるごと交換することができたなら、想像もつかないような色と形の新しい世界を経験できるのかもしれません。
そもそも、わたしたちが目で見ている世界は、実際にそういうものとしてそこにあるのか。
それとも、私たちの脳がそういうものとして作り上げているだけなのか。
わたしにとって、それは、物心ついたころからずっと続くこの世界への根本的な疑問でした。
なぜなら……
わたしの右目と左目は、見える色が、それぞれ少しずつ違うからです。
わたしはいつも、赤い世界と、青い世界を、左右それぞれの瞳で、別々に見ています。
なので、両目を一緒に開くときだけ、(たぶん)普通の色の世界になります。
まぁ、それが「普通」だという保証はどこにもないわけですが。
色が違うと言っても、左右の色の差はそれほど大きくありませんし、いわゆる色覚異常はありません。ただ、白っぽいものを片目ずつ見ると、左右にはっきりとした違いがあります。
色の違いの程度は、その日の体調などによって結構変わります。
なにより本当に不思議なことに、左右の瞳に映る赤と青の色は、まれに入れ替わることがあるのです。
つまり、わたしにとって、見えているものと客観的に存在するものとが、理屈ではなく体験として、そもそも一致していないということになります。
そんな人間の知覚の曖昧さを考えれば、アネモネがアライグマに見える人がいるのも、仕方のないことかもしれません。
だから、アネモネロゴをアライグマと言われてもまったく気にしてませんからね、O先生!
もう、これを書かないわけにはいかない状況となりました。
共謀罪の話です。
共謀罪の危険性や不当性については、ネット上だけでもすでに様々な情報があるはずで、私がここで屋上屋を重ねる必要はないと思ってきました。
しかし、残念ながら、正しいことが正しいというだけでは通らないこの世の中です。
法律の細かい議論は、一切省略します。そういうのは、よそで読んでください。(……法律ブログなのにね。)
でも、監視社会だとか、一般市民が対象になるかとか、対象犯罪が277個もあって多すぎるとか、そんなのどうでもいいんですよ。
あ、いや、どうでもいいは言い過ぎですけど、そういう難しいことは後回しでいいんです。
市民の声なき声の最大公約数は、要するに、
「共謀罪になんとなく不安はあるが、テロ対策のためには必要なのではないか」
ということなんだと思います。
共謀罪推進派の政府や右寄りの人たちは、これをもっと極端にして、
「日本国民を守るためのテロ対策の法律に反対するやつらは、左の売国奴だ!」
という論調です。
ここでは、政府や官僚など、嘘つきの確信犯でこれを言っている人たちは無視します。知っていて嘘をついている人に、それは嘘だと言っても何も響きません。
そうではなく、「テロと戦うためには共謀罪が必要だ」と本気で誤解している(騙されている)人たちが、なぜか、本当になぜなのか分かりませんが、とにかくすごくたくさんいる、ということが問題の核心なのです。
共謀罪法案(組織的犯罪処罰法改正案)は、嘘つきどもによって「テロ等準備罪」法案と呼ばれていますが、テロ対策目的の法律ではありません。
たいていの法律は、第1条に法律の「目的」をはっきり書いています。共謀罪法案もそうです。
そこに、「テロ」という言葉は、ありません。
「条約を実施する」とか、「組織的に行われた殺人等の行為に対する処罰を強化」することとかが「目的」として書かれています。
法律論は省略すると言ったのでこれ以上はやめますが、法律案に書かれている「目的」自体も嘘です。
そして、「テロ対策」は、嘘だとしてもさすがに書けないくらいに、この法律とは本当に関係ないんです。
でも、法律の目的に「テロ」はありませんが、「組織的な犯罪」という言葉が出てきます。
そこで、「テロ集団も組織的な犯罪に含まれるから、共謀罪はテロ対策になるんだ」と、ひたすら言い続けている大嘘つきが、世の中にたくさんいるわけです。
どうか皆さん、こんなアホな話に1ミクロンでも騙されないようにしてください。
当たり前ですけど、テロは、集団でしなくても、一人でやってもテロですからね。テロをやったのがテロ集団でなくても、やったことがテロならテロですからね。
本当にテロ対策をするのが目的なら、共謀罪ではなく、組織犯罪対策でもなく、テロを防止してテロ集団を取り締まる「テロ対策法」を作るべきですからね。
テロ対策が目的ではないからこそ、テロ対策法ではなく、共謀罪なんですよ。
政府主導の法制審議会ですら、治安維持のために共謀罪を作る必要性はない(立法事実がない)と結論されています。もともと、いらない子なんです。
ましてテロ対策になるなんて、公式の文書では誰一人として言ってない。
ついでに、条約締結に法律が必要だとも言ってません。
よく聞くと、「(たぶん)役に立つ(だろう)」と言っているだけなんです。
本当の目的はそんなことではありません。それを言うと見向きもされないから、なんとか嘘の理由をつけて騙そうとし続けているんです。
彼ら嘘つきども(のうち頭の良い部類の人たち)は、「犯罪組織=テロ集団」だとは言ってません。「組織的犯罪=テロ」だとも言っていません。
そう言ったら、明らかに嘘をついたという公式の記録が残りますから、そうは言いません。
テロと組織的な犯罪は、基本的に関係ないです。彼らもそれは分かっています。
だから法律の「目的」に書けないんです。
つまり、彼らは、強行採決してでも通したい本当の目的は言わずに、
「誰でも彼でも片っ端から捜査対象にして、えん罪でもなんでもすぐ捕まえられるようにする法律ですから、たくさん捕まえた中にはテロ集団みたいなのが入ることもありますよ。だから、結果的にはテロ対策にも効果があるはずです。」
と言っているんです。
それを聞いた素直な人たちが、共謀罪はテロ対策のための法律なんだと何故か勝手に誤解して、騙されて、その中でも特に正義感の強い人たちは、「共謀罪に反対するやつは極左の非国民だ」とかって、怒り狂って叫んでしまうのです。
あまりに可哀想すぎます。
テロ対策をしたいなら、テロ対策法を提案すればいいんですよ(もう、ありますけど)。
国民を監視したいなら監視したいと言えばいいんですよ。
信念を持ってそれが必要だと思うなら、堂々と正面から主張すればいいじゃないですか。
私は私の信念でそれに反対しますけど、自分と異なる意見を述べる自由は、最大限に尊重します。
けれども、嘘をついて国民を騙そうとする人たちに、正義はないです。
共謀罪を「テロ」という枠組みで語る限り、その人は嘘つきか、嘘つきに騙されてしまった可哀想な人です。
平成29年5月30日,「個人情報の保護に関する法律及び行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律の一部を改正する法律案」が全面施行されました。
これが,ここ最近,まじめな中小事業者を泣かせている,いわゆる「改正・個人情報保護法」というヤツです。
え? 改正法の対応に小規模企業が困っていることは分かるけど,個人情報保護法のいったい何が妖しいんですか?
……いやいやいや。上に書いた個人情報保護法の正式名称の「及び」以下の部分,「行政手続における」うんぬんというのは,いわゆるマイナンバー法(個人番号法)のことです。
マイナンバーなんてもう,それ自体が妖しさマックスというか,お先真っ暗な泥沼監視社会の入口はこちらですよ的な法律なわけです(「出口はこちら」の案内板が共謀罪です)。
なので,マイナンバー法と不可分一体の法律である個人情報保護法が妖しくないワケがないのです。
ということで,妖しいのは確かなのですが,マイナンバーが本領を発揮するまでは,この法律の本当の妖しさは誰にも分からないでしょう。
……「誰にも」って,じゃあ,お前もかっ!
って感じですね。
まあ,実際そうなんですが,そうだとは口が裂けても言ってられないのが弁護士というお仕事なのです。
何だかよく分からないことを言っていますが,要するに,ホントの妖しさはこれから時間をかけてみんなが分かることだろうけど,現時点でも,妖しい点はいっぱいあるぞということです。
たとえば,個人情報保護法第2条は,個人情報を「生存する個人に関する情報」に限定しています。
死んだ人に関する情報は,個人情報ではないということです。
つまり,私たちに関するあらゆる情報が,死後,いきなり「個人情報」ではなくなり,保護の対象外にされてしまうということです。
男子諸君!
この妖しさに貴兄は気付くか!?
ということはつまり,我々が皆,等しくベッドの下や押し入れの奥の段ボールの中に隠しているであろうあんなこんなも,死んだら開けずに燃やしてくれと遺言を残すようなパソコンのハードディスクの中身も,全部まるごと,死後もはや個人情報じゃなくなっちゃうかもしれない。死後の男子の本懐(プライバシー)は一切保護されないかもしれない,ということなのだ!
これを妖しい法律と言わずして何と言うのか!!
……などという謎の男子の本懐論はともかくとして,死んだらもう個人情報として保護されない,というのもどうなんでしょうか。
立法理由としては,保護すべき個人情報の範囲を適切に制限(狭く)することで,企業側の過剰な負担とならないようにする,などということも言われます。
う~ん。
共謀罪と同じで,妖しい法律を作ろうとする人たちは平気で嘘をつくので,気をつけなければいけません。
個人情報を取得している通常の企業に,その人が死亡したらもう個人情報として扱わなくていいよ,などと法律が言っても,企業側の負担の軽減にはなりませんよ。
だって,その人が死亡したことを企業はどうやって知るのでしょうか?
死亡したと明確に分からない限り,生存している個人の情報としてずっと管理し続ける必要がありますよね。
そうすると,個人情報保護法を立法した人たちは,今ではない近い未来に,いずれ個人の死亡に関する戸籍などの情報を企業がいつでも知ることができる時代が来る,という前提で考えていることになりそうです。
戸籍,住民票,銀行口座,不動産,勤務先と収入,支出(つまり買い物の金額と内容)などのすべての情報が紐付けされて個人情報としてひとまとめに管理され,国家によって検索可能となる。
そのうえで,個人情報の一部は,国家様がお作りくださったありがたい法律のおかげで,何とか保護していただける。
しかし,人が死んだら無に帰すので,すべての情報が保護から外れてしまう。
そういう暗い社会が想定されているような,全然想定されていないような……。
マイナンバー,特定秘密保護法,共謀罪は三点セットです。
これに戦争法と憲法改正が入ると豪華五点盛りになります。
今,4つめまで来ましたよ。
「プラトニック不倫」なる言葉が,テレビや雑誌やネット上で踊るようになりました。
報道された政治家たちの実際の男女関係も興味をひいているのでしょうが,それ以上に,「プラトニック・ラブ」な関係でも「不倫」になるのかという,なにやら哲学的な話題で盛り上がっているようです。
というか,本音のところで大人の皆さんが知っておきたい知識は,「プラトニック不倫」でも法的に慰謝料を取られてしまうのか,あるいは,離婚原因になるのかどうか,といったことですね。
その気持ち……,よーくわかりますとも。
だって,プラトニックでダメなら,法律は既婚者に対して,夫・妻以外に対するトキメキもドキドキも一切許さないってことに,なりかねませんからね。
(法的思考ではそうならないのですが,一般にそう思われても仕方ありません。)
ネット上では,離婚専門の弁護士による解説記事として,「不貞行為に該当するリスクはない」と言い切っているものもありました。
不貞行為は,夫婦間の互いの貞操義務に違反して肉体関係を結ぶことなので,肉体関係がなければ不貞行為に該当しないという法律の理屈です。
理屈では正しいのですが,こういう表面的な解説を簡単に信じて失敗する人がたくさんいますので,せめて法律夜話では,間違いの無いようにはっきり言います。
プラトニック不倫が不貞行為に該当するリスクは,十分にあります!
正確に言うと,これはリスクの中身の問題です。
簡単な質問です。
大人な男女が何度も同じホテルにお泊まりしていて,朝はいつも一緒に出てきて,行き帰りはずっと仲良く手をつないでいる。その写真もビデオも撮られている。
けれども,本人たちは「あくまでプラトニックな関係です」「一線は越えていません」と説明しています。
皆さんは,本人たちの話を無条件に信じますか?
この質問に対する皆さんの答えが,「プラトニック不倫」に判決を書く「裁判官」の視点での判断です。
これが裁判であれば,たとえ本当に「一線を越えていなかった」としても,裁判官は「不貞行為があったと推認される」と判決に書く可能性が,それなりに高いわけです。
つまり,真実がプラトニック不倫でも不貞行為にされていることになります。
皆さんが「プラトニック不倫」をしている側で,慰謝料請求される立場になったとしたら,「プラトニック不倫」で慰謝料が発生するかどうかなんて話は,二の次です。
まず最初の難関は,配偶者以外の異性と親しくしていることを前提に,それは「プラトニック不倫」(肉体関係が無い交際)の限度なんだと,本当に信じてもらえるかどうかの問題なんです。
そもそも,慰謝料請求をされるということは,デートを目撃されていたり,甘いメールのやりとりを見られていたり,ともかく何らかの不利な証拠を握られているわけです。
そういう状況で,簡単に「肉体関係はありません」などという言葉だけの言い訳が通用するでしょうか?
……リスク,十分すぎるほどありませんか?
先ほどのネット記事では,弁護士の発言部分が『』でくくられているので,「リスクはない」という解説は,そのままその弁護士の発言だと読めてしまいます。
法律の解釈が正しいことと,現実のアドバイスとして正しいこととは,違います。
いろいろな意味で,危険ですね。
実際のところ,弁護士が取材を受けて記者がまとめた記事には,要約ミスや言い換えミスなどが非常に多いので,弁護士の説明が間違いだったとは言えませんが。
さて次に,いわば本題として,法律的にも「プラトニック不倫」であった事実が認められるとします。
その場合,普通の裁判官なら,法律上の離婚原因である「不貞な行為」(民法770条1項1号)には該当しないと判断すると思います。
けれども,法的に慰謝料の支払義務が発生する可能性は,まだあります。
なぜなら,プラトニック不倫が「不貞行為」に該当しないとしても,「不法行為」(民法709条)に該当する可能性は,あるからです。
不法行為とは,他人の権利や法的利益を侵害して損害を与える行為です。損害を与えたら,損害賠償の義務が発生します。
プラトニック不倫でも,相手の配偶者の平穏な家庭生活を壊し,精神的な苦痛などの損害を与える可能性はあります。そうなれば,不法行為として慰謝料などの損害賠償義務が発生します。
また,「プラトニック不倫」でも離婚原因になる可能性もあります。
なぜなら,プラトニック不倫が「不貞な行為」(民法770条1項1号)に該当しないとしても,「その他婚姻を継続し難い重大な事由」(民法770条1項5号)に該当してしまう可能性は,あるからです。
ただし,肉体関係が無いのにどの程度の「損害」があるのか,あるいは,プラトニック不倫が婚姻の継続にとってどれほど重大な障害を実際に引き起こしたのかといった点は,慰謝料を請求する側で裁判官を説得しなければなりません。
これらの立証は,それなりにハードルが高いでしょう。
というか……,「プラトニック・ラブ」は,もともと肉体関係のない愛じゃありません。
「プラトニック」は「プラトン的な」という意味で,あたかもプラトンが精神的な愛だけを説いたみたいですが,プラトンはそんなこと言ってません。
哲学者プラトンは,師匠ソクラテスの言葉を借りて(ソクラテスは婦人ディオティマの言葉を借りて),当時の少年愛の習慣を前提に,こう述べています。
「まず最初に一つの美しい肉体を愛し」
「その愛をあらゆる美しいに肉体に及ぼし」
「そうしてある一人に対するあまり熱烈な情熱をばむしろ見下すべきもの,取るに足らぬものと見て」
その結果として
「心霊上の美をば肉体上の美よりも価値の高いものと考えるようになることが必要です。」(『饗宴』/岩波文庫)
つまり,美しい少年の肉体を愛することからはじめて,やがて美と愛の悟りに至る道を説いているのです。
したがって,「プラトニック・ラブ」という言葉は,極めて誤用に近い転用です。
ちなみに,プラトン自身も,少年愛に深く溺れています。
このことで,プラトンは理想を説いたけれども実践はしなかったなどと言う人がいますが,浅薄な理解だと思います。
プラトンは,自らの理想とするところを実践していたからこそ,少年愛を貫いたと言うべきなのです。
ま,要するに,最初から最後まで肉体の愛をまったく抜きにした「プラトニック・ラブ」なんてものは,言葉からしてちょっとインチキくさいですよってことです。
いや~,久しぶりに行ってきましたよ,台湾道教の廟!!
こちらは,「五千頭の龍が昇る」とされる,大きくて綺麗な廟です。
数え切れないほどの龍の彫刻,特に台湾廟の代名詞でもある龍の透かし彫りの石柱や九龍網(九頭の龍が入り乱れる彫刻)は,精巧で見応えがありました。
……と言っても,この場所は「埼玉」です。
ご存じでしょうか,『聖天宮(せいてんきゅう)』。
埼玉県坂戸市塚越にある,本物の道教の廟です。
台湾好きの私としては,もちろん以前から気になっていたのですが,今回,休日に何とか時間を作って,やっと参拝できました。
最寄り駅は東武東上線若葉駅。ただ,駅から歩くと30分近くかかります。
まぁ,遠慮なく言うと,周りは一見して何もない田舎風景です。
田んぼや畑の真ん中に,ハデハデな台湾風の廟がいきなり出現して「どでーん」と建ってる感じですね。
でも,ここはパワースポットとして,知る人ぞ知る場所です。
何しろ,不治の病を患った台湾の法師様が,ご本尊「三清道祖」のご加護で奇跡的に回復し,その感謝の気持ちから,なぜか異国・日本で15年間もかけて建築した廟なんです。
場所も名前も廟の配置も,すべてが神様のお告げどおり。
当時,本当に何もない雑木林を一から切り開いて建てたんだそうです。
(……今でも何もないよ。)
建築したのは台湾から呼び寄せられた宮大工さんたちですから,間違いない本場の作り。
しかも,かなりでかい,というか,広い。
横浜中華街の関帝廟とかとは,規模が違います。
いや,あれはあれで,いいですけど。
やや遠慮して,日本最大「級」と称されていますが,実際,ここより大きい廟は聞いたことがないですね。
孔子廟なんかも含めるとどうかな?(ただし,孔子廟は簡素なのが本来の姿です。)
そんな聖天宮は,香取慎吾主演の月9ドラマ『西遊記』のロケ地だったり,コスプレーヤーの聖地だったりもします。
私が行ったときも,コスプレ女子が何人かでぴょんぴょんとジャンプしながら写真を撮ってました。
皆様,是非一度は訪れてみてください。
そういえば,拝観料が今年の10月1日から値上げされたそうで,高校生以上は一人500円になっています。
(私が行ったときは,まだ300円でした。)
拝観料とは別に,神様にお香をあげて参拝するのに一人300円かかります。
そのせいもあってか,台湾式にお香をあげて膝をついてお祈りする人はあまり多くないようで,台湾廟なのに,お香の煙がほとんど漂っていません。
どおりで,平成7年開廟でも廟内が美しいままです。
煤がつかないからですね。
……ちょっぴり残念。
ちなみに,台湾式のおみくじは100円でした。
台湾の廟には,拝観料なんてありません。ほぼ出入り自由。
たいていの廟で,お香は大量に置いてあり,それぞれが気持ちで寄進して,好き好きに参拝します。
廟内は常にお香の煙が漂い,花や果物などが大量に供えられています。
祭壇の前では,おみくじを引くために一心不乱に神杯を投げる音が響きます。
かなり運がよければ,順番に並んで,道士様に厄落としのお祈りとかをしてもらえることもあるのですが,お金なんて取られないですね(廟への寄進は別として)。
何よりの違いは,神様です。
聖天宮は,台湾の数ある廟と比べても,敷地はかなり広いほうだと思います。
その割に,奉られている神様は9柱のみ。
しかも,ご本尊の三清道祖が3神,日本の四天王に相当する四聖大元帥が4神,それに南斗星君と北斗星君の組み合わせで2神ですから,実質3組の神様です。
台湾だったら,もっと大量に,所狭しと神様・仏様・妖怪様?まで並んでいるのが普通かなと思います。
敷地が狭ければ,廟を3階建て,4階建てにして,とにかくたくさんの神様を奉ります。
人は誰もがみんな違うから,神様の好みだって,違うのです。
でもって,ほとんどどの廟にもいらっしゃるのが,我らが関羽様というわけです。
こうした道教的な発想でおもしろいなと思うのは,偉い神様ほど人気がない,ということです。
なんでだと思いますか?
道教の神様は,官僚のような上下の序列を持っています。
偉い神様というのは,世界や宇宙全体を管理する神様です。大統領とか内閣総理大臣みたいなものです。
そういう偉い神様に,下々の者が身の回りのお願い事を頼んでも,いちいち聞いてくれませんね。
なので,個人的なお願い事は,もっと庶民に身近な神様,たとえば市会議員とか町役場の係長さんみたいな,地方のお役人級の神様にお願いしないといけないのです。
そういうわけで,関羽や媽祖のように元々が人間だったり,孫悟空のようにお猿さんであったりして,より人間(界)に近い神様ほど,親しみと御利益があり,みんなから人気があるのです。
その点,日本だと,一番偉いはずの内閣総理大臣と直接お友達になった人が,しっかり現世御利益を得られる国のようですから,台湾より大物狙いな人が多い……かもしれませんね。
独立して早くも8か月が経ちました。
お陰様でたくさんの御支援と御依頼をいただき,忙しくも充実した年末を迎えています。
今年は晦日も元旦もなく仕事に立ち向かうことになりそうです。
こういうときには,あらためて自分が選んだ弁護士という道について,ちょっと考えてみたりするのです。
弁護士という職業は,良くも悪くも特別に見られるところがあります。
もちろん,エライからとか,エリートだからとかではありません。
このところのように弁護士の不祥事が続くと,エラくはないがエロいなどと言われることがありますが(別に否定しませんが),そういうことではないです。
何と言っても,かつての司法試験が「現代の科挙」と呼ばれるほど難しくて,弁護士の絶対数も少なかったことで,希少性が高いと思われていたのが第一の理由でしょう。
もっとも,私が司法試験に合格した後,2004年にロースクール(法科大学院)制度が出来てから一気に様子が変わっていき,2012年には旧司法試験が完全廃止されて新司法試験のみとなり,司法試験が以前よりもかなり受かりやすくなりました。
合格者の人数も大幅に増やされ,今は弁護士の数も相当増えています。
なので,この第一の理由については,多少状況が変わりつつあります。
今の司法試験も国内最難関資格のひとつであることに変わりはありませんが,今後さらに状況は変わり続けるでしょう。
ちなみに,私は,依頼者となる市民のために,弁護士という職に就くための能力的なハードルは出来るだけ高くあるべきだと思っています。
司法試験を簡単に受かりやすくして合格者を増やし,それによって弁護士を増やすなどという現在の法曹養成制度には,反対です。
……が,今回はその話でもありません。
試験制度や人数がどうこう言う前に,「弁護士」という資格と職業が何となく特別な感じを持つのは,実は日本国憲法に根拠があるのです。
憲法には,前文のほかに本文が99か条あります。補則4か条を含めると,全部で103か条です。
言い方を変えると,日本という国を成り立たせている根本的な法律は,たった103か条しかありません。
その数少ない憲法の条文の中で,1つの条文(1か所)に「弁護士」が登場し,別の2つの条文(3か所)に「弁護人」が登場します。
「弁護士」が出てくるのは,第77条です。
第77条
最高裁判所は、訴訟に関する手続、『弁護士』、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
「弁護人」は,第34条と第37条に登場します。
第34条第1項
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに『弁護人』に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその『弁護人』の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第37条第3項
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する『弁護人』を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
そして,憲法が規定する「資格を有する弁護人」とは,原則として,職業としての「弁護士」に限られているのです(刑事訴訟法第31条第1項)。
例外は特別弁護人制度ですが,簡易裁判所及び地方裁判所に限られるうえ,実務上は滅多に選任されることがありません。
さて,この世に職業は数あれど,憲法に登場する職業となると本当にごくわずかです。
天皇と摂政を別とすると,職業と言えそうなのは,(1)内閣総理大臣,(2)裁判官,(3)国会議員(衆議院議員,参議院議員,議長),(4)国務大臣,(5)外国の大使,(6)外国の公使,(7)公務員,(8)司法官憲,(9)弁護士(弁護人),(10)検察官,(11)地方公共団体の長,(12)地方議会の議員,(13)地方公共団体で法律の定めるその他の吏員,だけです。
そして,これら憲法に登場する職業の中で,唯一の民間職・民間人が「弁護士」です。
そもそも憲法は,国家や公務員の権力から国民を守るためにある法規範です。基本的に,国家や公務員に対する国民からの命令なのです。
したがって,本来,憲法に登場するはずの職業は,国家を構成する人々,すなわち,政治家を含む広い意味での公務員たちということになります。
それに対して,弁護士は民間人です。憲法上,むしろ国民側にいる者です。
なぜ,弁護士だけが民間職でありながら憲法に登場するのでしょうか。
それは,弁護士が,国家や公務員の権力から国民を守るための最後の砦の役割を果たす職業だからです。
なかでも,国家が国民に対して最も直接的に牙をむく場面が,刑事裁判です。
国家権力とは,ある日突然,暴力で国民を拘束して牢屋に閉じ込め,そのまま死刑にして命を奪うことが出来るという圧倒的力のことだからです。
それを防ぐ立場にあるのは,唯一「弁護人」だけです。
他の誰も,間違った刑事裁判を正すことができません。
ただ見ていることしかできません。
つまり,弁護士が特別な職業である意味とは,国家権力と対峙できる唯一の専門職であり,刑事弁護人となることができる唯一の資格であるからなのです。
昔,私がまだ学生だった頃に出会った弁護士さんが,「刑事弁護をやらない弁護士なんて本当の弁護士じゃないよ」と,冗談めかして言っていました。
その方は,知る人ぞ知る本物の刑事弁護人の一人でした。
素直に「すげー。」「かっこえー。」と思ったものです。
今では,その私が,弁護士向けに刑事弁護の講義をする立場になりました。
そこで,講義の中で,「刑事弁護をやらなければ本当の弁護士じゃない」などと,恐る恐る言ってみたりします。
とは言っても,お金にも名誉にもならない刑事弁護をほとんどやらない弁護士は,日本に数多いのです。
多数の弁護士を前にして,「お前らみんな本物の弁護士じゃない!」などと大声で言い放つのは,さすがに蛮勇です。
それで,「あくまで学生の頃に聞いた話ですけど……」と断ってから,まるで人ごとのように話しています。
言いたいことがあるけど,はっきり言うほどの勇気が無いときは,人のせいにするといいのです。
正しいことなら,言わないよりだいぶマシだからです。
ただし,口にした責任は,自分に対して取りましょう。
……という話も,昔どこかのエロい先生から聞いた気がします。
それでは皆様,どうぞよいお年をお迎えください。