埼玉・東京エリアを中心に活動する弁護士吉岡毅の本音ブログ「法律夜話」の過去ログです。このページでは,2015(平成27)年のブログ全話を通しでお読みいただけます。
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あけましておめでとうございます。
昨年末,国連の障害者権利委員会委員長であるマリア・ソリダド・システルナス・レイズ女史と直接お話しする機会がありました。
障害者権利委員会とは,「障害者の権利に関する条約」によって設置された国連の機関であり,世界各地の締約国政府から提出される報告書を検討して,各国への勧告などを行います。マリアさんは,ご自身が盲目のハンデをお持ちですが,2013年4月から同委員会の委員長として,この分野で精力的かつ国際的に活躍されています。
なお,日本は,同条約について2014年1月20日に批准し,同年2月19日から国内で効力が発生しています。
当日は,来日中のマリアさんとの意見交換会が日弁連にて開催されたため,私も国際人権問題委員会の担当委員として参加しました。
他の参加者は,日弁連の中でも自他ともに認める障がい問題の専門家である各弁護士と日本障害フォーラムからの代表出席の皆さんであり,正直言って,委員になって日の浅い私が国際人権問題委員会の代表となるのは気が引けたのですが,そこは「大人の事情」でお引き受けした次第です。
マリアさんのお話は,障がい者問題について常に原則論から展開されており,日本における従来的な障がい者支援のあり方に対しても,大きな発想の転換を求められる内容でした。
特に,これまで「障がい者に対する代理や本人名義の行動は,障がい者にとって便益である」と考えられてきたことについて,国際的には本条約成立以前の古い考え方であり,誤りであると明言されていたのが印象的でした。
すなわち,従来の考え方では,家族,医療関係者や法律の専門家らが,障がい者本人のためと称しつつも,実際には当の本人の気持ちを横に置いて,おそらく一般人の多数が利益だと感じるであろう内容で,(悪く言えば勝手に)代理行為をするのが普通でした。
しかし,障がい者のための制度であると言う以上は,たとえわずかでも残された本人の意思と能力を最大限に尊重し,あくまで本人の趣味・嗜好に基づく利益が何であるかを探る必要があります。本人の意思決定が,他人や一般人からみたら不合理に感じられるとしても,だからといって無視するのでは,障がい者の権利を保護したことになりません。私たちはみんな,他人から見れば不合理なことをたくさんしているのです。
この観点からすると,包括的な代理権を付与する日本の成年後見制度は,根本的な改革を迫られます。代理ではなく,意思決定と意思表明を各人に必要な範囲で支援できる制度を作っていく必要がありそうです。
もっとも,遷延性意識障害(いわゆる植物状態)の方のように,どうやっても自分では意思決定・意思表明しようがない人に対しては,やはり代理の形式を認めざるを得ないのではないかという疑問があります。
また,例えば,死刑判決を受けた被告人が自らの精神障害によって上訴や再審請求を取り下げてしまう場合など,手続の重大性に応じて,刑事弁護人などの一定の専門家に独自かつ固有の権利を認める必要がある場面もあるでしょう。
こうした例外的事情については,国連においても,まだこれから議論が尽くされていくべき問題であるとのことでした。
ちなみに,会議で私からマリアさんに対しては,日本の「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(いわゆる医療観察法)についての質問をしています。
でもまぁ,そんな難しい話より,会議後にマリアさんと少しだけ2人でお話をすることができたのですが,とにかくとっても優しくて,すごくキュートな方だったのです。名刺に点字を入れていなかったことを,ちょっと後悔。
人間(特に男は),たとえ会議で寝てても,そういうところでは「頑張るぞ」とか思っちゃうわけです。
それもまた,別の意味で「大人の事情」ってやつでして。
そんな感じで,今年もよろしくお願いいたします。
この世の中,全く嘘をつかずに生きている人なんて,いないと思います。みんな,何かを抱えながら生きています。
でも,大事な場面の大切なことで他人を傷つけるような「嘘をつく人」って,本当に嫌ですよね。
弁護士という職業では,残念ながら「嘘をつく人」と接する機会が,普通の人よりも多いと思います。交渉や反対尋問などでは,相手の巧妙な嘘を見破らなければならない場面があるし,そのための技術を磨く努力もしています。
それでも,どうしても見抜けないこともあれば,たとえ見抜けたとしても,やむを得ず気付かないふりをしなければならない場面もあります。
けれども,何といっても一番悔しいのは,嘘だと分かっているのに証拠がなくて嘘を証明できない場合です。
では,刑事裁判の証言席でもっとも多くの嘘をつく証人は,どういう人たちだと思いますか?
それは,圧倒的に「警察官」です。
ある程度の専門性をもって刑事弁護に取り組む弁護士であれば,この結論にあまり異論は出ないと思います。
刑事裁判において,警察官ほど,組織的かつ平然と大きな嘘をつく人たちはいません。
彼らにとって,犯罪行為をしたに違いない被告人を重く処罰することは無条件に正義であり,警察組織を防衛し,被告人を有罪にするための虚偽供述は,正義にかなうのかもしれません。
正義感でやっているならまだ救われますが,実際の印象では,正義感というより単に上司の方針と顔色に従っているだけ,というのが本音のようです。これを見抜けず,あるいは,知っていて積極的に利用する検察官もいます。
その一方で,警察官の「嘘」を立証するための証拠は,すべて警察と検察が持っているのですから,やりきれません。
取り調べの全面的な可視化をすれば,警察官の嘘の3分の2くらいが暴かれる(不可能になる)わけですが,だからこそ彼らは必死で反対しているんでしょうね。
裁判で,証人は嘘をつかないという宣誓をしてから証言します。
どうせなら,警察官には「指切りげんまん」してもらったらいいんじゃないでしょうか。
指切りげんまんの「げんまん」は「拳万」と書き,拳骨で1万回タコ殴りにするという意味。「嘘ついたら針千本飲~ます!」は,縫い針千本を飲ませる刑に処するということ。
それ以前に,指切りは本当に指を切って約束することなのです。
なんでも,昔の遊女が自分の小指を切って思い人に送った習慣が起源だとか。
子どもが歌に合わせて小指を絡めてぱっと放すあれは,「小指を切る」動作から来ているのです。
ヤクザが小指を詰めるのも起源は同じようですね。
でも,宣誓を指切りげんまんにしたら,証人はみんな小指がなくなっちゃう?
いいえ。
実は,昔も,男女が互いに送り合うための「偽物の指」が売られていたんだそうです。今なら大層精巧に作れることでしょう。
あ,それじゃ宣誓と同じか……。
先日,近しい人を亡くしました。
いずれ遠からずと覚悟していたことでしたが,それでも別れの痛みは心に刺さります。
彼から,とてもたくさんのものをもらいました。
彼の死は,さらに多くのことを教えてくれました。
もはや伝えられない感謝と,取り戻せない日々への後悔。
ふと立ち止まる一瞬の時間に,現実感を奪われそうになります。
弁護士として多忙を極める中,翌日からすぐに仕事に没頭できたことは幸運でもありました。
苦しみばかりの病院の検査で,「体の中に(人工関節などの)金属がありますか?」と聞かれて,「男なんだから,あるに決まってるだろう。」と股間を見て,看護婦さんを困らせた人。
ケンカをすると,「ほっといてくれ。」「しょうがねえだろ。」「いいんだよ。」しか言わなかった人。
でも日記には,「ありがたい。」「迷惑をかけたくない。」と書き残していた人。
日記の最後の行には,静かに死を受け止める彼の豊かな感性が輝いていました。
「又 違う景色が見られるかな…。」
台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」を観ました。
台湾が日本統治下にあった1931年,まだ一勝もしたことのなかった台湾南部の弱小野球部・嘉義農林学校(嘉農=KANO)が,台湾代表,そして日本の甲子園出場を目指す話です。
台湾映画ですが,セリフの9割以上は日本語。ほぼ実話に基づいており,映画だけではわからない時代背景や登場人物について知れば知るほど,深い味わいが胸に広がります。
この映画が,日本ではなく台湾で制作され,台湾で史上初となるアンコール上映となったことが,何より嬉しい。立法院占拠中の学生たちも観たとか。
185分という長い映画ですが,あっという間でした。映画館は,ほぼ満席。
もろに(ある意味で非常にベタな)野球映画なのですが,そこは「実話」の持つ重みが最高に効いていて,野球が好きでなくても十分におもしろいですよ。
あれこれと集めた裏話などを書きたいところですが,それも含めてなるべくたくさんの方に自分で観て,自分で知ってもらいたいので,今はやめておきます。
ただ,劇中の「八田先生」(八田與一:はったよいち)の名前くらいは,先に知っておいていただくといいですね。
台湾人にとっては説明不要の有名人ですから,映画の中では何の解説もされていません。知らないと,「何この人?」って思うかもしれません。
八田は,当時の台湾で,映画にも出てくる嘉南大圳(かなんたいしゅう)という大規模水利事業などを行った日本人です。台湾を愛し,台湾に愛された人で,烏山頭ダムには今も彼の銅像があり,毎年,命日の慰霊祭も行われています。
是非,覚えておいてください。
この映画とは関係ありませんが,台湾では,今も神様として祀られている日本人が複数います。
よく知られているところでは,飛虎将軍(杉浦茂峰)と義愛公(森川清治郎)。
飛虎将軍は,当時の日本軍人です。台南上空で米軍機と零戦で戦い破れ,集落に落下して大火事となりそうなところを命懸けで避け,落下傘で降下中に機銃掃射を浴びて亡くなりました。
お廟では,今も毎日「君が代」と「海ゆかば」が斉唱されています。
義愛公は,台南に赴任した当時の日本人警察官です。村民のために寺子屋を開いて自費で読み書きを教え,衛生教育に努めたり,体を張って村民の命を助けたりしました。最期は,村民に代わって重税に抗議し,謀反の煽動を疑われて自死しました。
警官の制服姿の彼が祀られた富安宮は,地元の人々が毎日お線香を絶やさずに守り続けています。
そういえば,これらはいずれも台南,特に富安宮はKANOと同じ嘉義県ですね。
また台南に行きたいなぁ。
何でも「わかりやすい」ことを要求されるのが最近の傾向です。
いわゆる二項対立構造の問題点を指して「分かりやすさの罠」などと呼ぶ場合もあって,それはそれで大問題なのですが,ここで言う「わかりやすさ」は,もっと単純に,説明や話し方が明快で,漫画的で,あっさりしていることです。
テレビ番組や雑誌はもちろんのこと,かなり専門分野の書籍でも,図や色彩や文字の大きさから,パッと見てわかりやすそうに感じられないと売れないそうです。
わかりやすいのは一見すると良いことなのですが,かみ砕くほど中身は薄くなり,厳密さを失って,細部は不正確になります。
わかりやすいがゆえに,不十分・不正確な理解のまま,なんとなくわかった気になることの怖さもあるのです。
もっと悪いことに,人は「わかりやすさ」を良しとするあまり,「わかりにくさ」を憎むようになります。
しかも,わからない自分ではなく,わかりにくい相手を。
裁判員裁判でも,裁判員にとって「わかりやすい」ことばかりが強調され,証拠の厳密さや説明の細かさが憎まれる傾向があります。
「みのもんたみたいに(TVのワイドショーのように),もっと簡単に説明できないのか」などとおっしゃる人も,時々ですが,いらっしゃいます。
わかりにくいことが忌み嫌われる結果,わかりにくいと思われた側に不利な心証をもたれてしまうこともあり得ます。
(したがって,裁判員裁判での刑事弁護や被害者参加を依頼する際は,必ず裁判員裁判の経験を積んだ弁護士に依頼するべきです。)
ただ,この傾向は裁判員の方々よりも,どちらかというと裁判官のほうに強いようなのです。
もともと法律の素人である裁判員の方々にとっては,わかりにくいことはある意味で当たり前です。ほとんどの方は,たとえ少し難しく思えても,頑張って理解しようと懸命な努力をされています。
ところが,裁判官は違います。自分たちは法律をわかっていますし,刑事裁判の手続にも慣れていますから,裁判員の方々の理解が自分たちになかなか追いついてこない場合,そのフォローのために時間を奪われ,気を遣い,評議の進行に大変な苦労をすることになります。
その恨みが,(裁判員にとって)わかりにくい(であろう)話し方をした検察官や弁護士に向かいがちになるです。
裁判員裁判を傍聴していて,裁判長が,検察官や弁護人に対して進行についての文句を言う場面は,ほとんどそれです。
やれ「予定時間を過ぎている」だとか,やれ「質問を絞って短くしろ」だとか。
裁判員の方々は,裁判長が一体何に怒っているのかすら分からず,キョトンとしています。
わかりやすさを追求した結果,表面的な理解と薄っぺらな議論ばかりが喜ばれるような社会には,ならないでほしいと思います。
このところ埼玉県警が,県内の色々な場所で,ひたすら同じ公衆放送を繰り返しています。
「『電話番号が変わった』,『風邪をひいて声が変わった』という電話は,…詐欺です!!」
いや,いや,いや,いや…。
それ,誰でも普通に言うから。詐欺とは限らないから。私も,このまえ言ったから。でもって,何でも詐欺だとか思われてすぐ電話を切られちゃって,下手すると速攻で着信拒否とかされちゃって,ものすごく困るから。やめてください。
断言の仕方が,ちょっと極端すぎでしょう。
(これも「わかりやすさの落とし穴」の一例ですね。)
さて,こうしたオレオレ詐欺・振り込め詐欺(今は,架空請求や必勝法詐欺なども総称して,「特殊詐欺」と呼ぶようになりました)の流行のせいで,弁護士の仕事が詐欺と間違われやすい場面も出てきています。
そのひとつが,当番弁護士として被疑者・被告人の親族に電話連絡をした際の会話です。
私は,近いうちに必ず「当番弁護士詐欺」が出現するだろうと思っています。
たとえば,ある日突然,皆さんの携帯電話に弁護士を名乗る見ず知らずの男から,こんな電話がかかってきたらどうしますか?
「私は,日弁連の当番弁護士です。息子さん(お孫さん,ご主人,etc.)が暴行容疑で警察に緊急逮捕されたため,私が先ほど裁判所の許可を受けて面会してきました。
息子さんが私選弁護士をつけたいと言っています。今すぐに弁護活動を開始しないと,えん罪で刑務所に入れられてしまいます。
弁護士報酬は,……円で,振込先は……です。急いで入金してください。」
この電話がかかってきた日に限って,たまたまその人の帰宅が普段より遅かったりしたら,さすがに焦りませんか?
もちろん,本物の当番弁護士なら(少なくとも私なら),こんな不作法な話し方はしません。きちんと名前と身分を名乗り,ご連絡することになった経緯について,もっとわかりやすく説明します。
まして,いきなり弁護士費用の話なんかしませんし,会うこともなくお金だけ振り込ませることもしません。
それどころか実は,上に挙げた例はわざと間違いだらけにしてあって,弁護士が聞けば一発で嘘(詐欺)だとわかる内容です。
しかし,普通の人なら,だまされてしまう危険が十分にあるでしょう。
では,当番弁護士詐欺を見破れるのかどうか,実際に試してみましょう。
上に挙げた例の中には,おかしなところが6個あります。
3つ見破れば合格です。全部わかった方は,かなりの「通」ですね~。
答え合わせは下の方でどうぞ。
ちなみに,本物の弁護士だって,ちょっと言い間違えたり,時間が無くて焦っていたりすることは結構ありますから,そういうとき,あんまりいじめないでくださいね。
なお,当番弁護士についての詳しい情報は,「【Q&A】当番弁護士とは?」を是非ご一読ください。
※以下,答え合わせです。
間違い1)「日弁連の当番弁護士」
当番弁護士は,各地の弁護士会で運用しています。「埼玉弁護士会の当番弁護士」とは言いますが,「日弁連の…」とは,まず言いません。(ただし,日弁連もお金は出しています。)
間違い2)「暴行容疑で警察に緊急逮捕」
法律上,暴行罪では緊急逮捕できません。
間違い3)「裁判所の許可を受けて面会」
弁護士の面会(接見)に裁判所の許可は不要です。
間違い4)「私選弁護士をつけたい」
「私選弁護士」ではなく,「私選弁護人」と言います。言い間違えることはあっても,間違えたまま(正しい言葉を知らない)ということはあり得ません。
間違い5)「えん罪で刑務所に」
逮捕されたばかりで,裁判も受けずに刑務所に入ることはありません。まずは「勾留」の説明が先でしょう。
間違い6)「弁護士報酬は」
最初にかかる弁護士費用は「着手金」や「実費」です。「報酬」は事件の終了時にかかるものですから,最初に「弁護士報酬」を振り込めというのは,ちょっと変です。
私は,刑事事件などと並んで家事事件を扱うことが多いのですが,家事事件の中でも受任数が多いのはやはり離婚事件。次いで相続事件ですね。
で,自分が結婚する前に,弁護士として離婚事件をあまりにたくさん扱いすぎると,もう結婚なんて普通にはできなくなります。
「そんなことないよ」と言う弁護士仲間もたくさんいます。が,そういう人と話すと,大体扱う件数が違っています。
常時5~10件ほどの離婚事件を抱えたうえ,他の弁護士が嫌がるDVの専門相談も積極的に引き受けながら,自分だけはいつまでも結婚に夢を見られるなんて,そんなわけないです。
この10年間,私の目の前で,生涯の愛を誓い合ったはずの男女が,ありとあらゆる愛憎劇を繰り広げつつ,次々と別れていきました。
でも,そんな二人にも,相手を想い続け,追いかけたあの頃があったはずです。
愛しくて切なかったその時を思い出せる,素敵な映画を観ました。
「あの頃,君を追いかけた」
これも台湾の映画です。主人公である柯景騰は,柯震東(クー・チェンドン)がやると実物よりカッコ良すぎなんですけど,お馬鹿で自然な演出のおかげで,まったく嫌みがありませんでした。ミシェル・チェン(陳妍希)の演じる沈佳宜の素朴な可愛さにも,思わず魅せられます。
誰かを想ったあの頃の気持ちが,心の中でチクチクとした鼓動を取り戻すような感覚。ちょっとお茶目で,とっても優しい物語でした。
さすが,九把刀。
ただ,そんな美しい「あの頃」を持った二人でも,別れが訪れてしまうことはあるんですよね。
それでも,素晴らしいあの頃を過ごせたという幸せは,一生忘れないでほしい。
そして,もしあの頃をともにした人が今もまだあなたの隣にいるのなら,どうかその幸せを,一生大切にしてください。
人生の難しさを思いながら,今週もまた,いくつかの離婚と向き合います。
川崎の少年事件等で,また加害者少年の実名報道や写真掲載が話題になっています。
念のため確認しておきますが,実名報道は少年法違反,つまり違法行為です。
ただし,違反に対する罰則はありません。
(記事等の掲載の禁止)
第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については,氏名,年齢,職業,住居,容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
法律論としては,少年法の趣旨だとか,表現の自由や児童の権利に関する条約との関係など,様々な角度から論じられている難しい問題です。
けれども,これって,もっとシンプルな問題だろうと思うんです。
法律を横に置いて考えると,現在の素朴な市民感情における多数派は,実名報道に賛成でしょう。
そりゃそうです。だって,法律で禁止されていて誰も知ることができないはずの犯人の顔写真や名前やプライバシーが,ある特定の雑誌やネット情報でだけ見られると分かったら,誰だって見たくなりますよ。
私だって,ついリンクをクリッ……。
いや,それはともかく,要するにその感情は,どんなに良く言ってもただの「好奇心」。悪く(率直に)言えば,出歯亀的な「覗き見根性」か,せいぜい野次馬根性なんです。
要はこれ,ポルノと同じなんです。隠されているはずのものを見られる快感なんです。
すごく汚らしいけど,人としてやむを得ない感情でもある。
それだけのことだし,だからこそ,嫌でも否定しきれません。
これに対して,正義感を振りかざして実名報道を積極的に肯定しようとする人たちが,結構たくさんいます。
しかし,その理屈はどれも空々しくて,はっきり言って気味が悪い。
たとえば,
「加害者が,実名報道されている被害者よりも守られるのはおかしい」
とか,
「加害者は,(少年でも大人でも)名前をさらされて罰を受けるべき」
とか……。
一見すると共感を呼びそうな話だけど,実はまったく筋が通っていません。
それに気付かない人が多いということも,すごく怖い。
事件が起こるたびに,被害者や家族の気持ちなんて一切考えずに,当然のように被害者の実名や写真を無許可で流しまくり,生い立ちやプライバシーを根掘り葉掘りあばいて楽しんでいるのは,一体誰でしょうか?
事件の加害者じゃなくて,マスコミじゃありませんか。
そんな「報道」を喜んで見ているのは,一体誰でしょうか?
事件の加害者じゃなくて,私たちじゃありませんか。
自分たちが先に被害者を散々苦しめておいて,だから加害者も苦しめと,勝手なことを言っているだけじゃないでしょうか。
加害者の顔を見て,実名を知って,そのうえで謝罪を求めたり,損害賠償請求をしたりすること。それは,間違いなく被害者の権利です。
しかし,私たち(第三者)の権利ではありません。
私たちにも,社会防衛のために事件や加害者を自由に批判する権利があります。
しかし,直接被害を受けたわけでもないのに謝罪を求めたり,損害賠償を請求したり,ましてや加害者を私的に処罰する権利などありません。
実名も顔写真も,自分とは関係ないはずなんです。
多くの人が,無関係の自分に加害者を罰する権利があると思い込むようになったら,きっと恐ろしい社会になるでしょう。
知りたい,見たいという確かな欲望がある。その欲望は金になる。営利企業であるマスコミが人々の欲望に応えれば,視聴率を集め,部数が伸び,広告費が入る。そこには経済的合理性がある。
下衆(ゲス)でもいいから見たいもんは見たい。金になるからやる。
それならすごく正直で,もしかしたら,それを正しいと言えてしまうのがこの資本主義社会なのかもしれない。まさに「鬼畜の所行」。
しかし,その欲望に忠実に従った結果の実名報道は,決して,
被害者のためではないし,
加害者に対して許された社会的制裁ではないし,
本当は表現の自由でも,知る権利でも,報道の使命でもない。
そういう言い方で欲望を正当化されると,自分を差し置いて「下衆の極み」とかって叫びたくなります。ハマカーンみたく。
資本主義社会は,欲望で発展し,欲望で暴走します。
だから,欲望を抑えるためのルール(法と道徳)を必要とするのです。
たとえば,無修正のポルノを法規制するように。
でも,無修正ポルノは誰も傷つけないけど,実名報道は必ず誰かを傷つけますよ。
だとしたら,規制されるべきなのは,どっちでしょうね。
私は,どちらもやっぱり見たいと思ってしまうけど,大人なので自制します。
わたしがまだ小さかった頃(たぶん小学校1,2年生くらい),たまたま一人で見ていたテレビドラマで,耳の不自由な女性に恋をした男が必死に手話を覚えて恋心を伝えようとする話がありました。
子どもでしたが,当時すでに,手話とか聴覚障害とかいったことについての一般的な知識はありました。
ただ,身近にはろう(聾)者がいなかったので,実際に手話で意思を交わすシーンをドラマの中で見たことが,とても印象的でした。
世の中には耳の聞こえない人たちがたくさんいるということ,
そういう人たちは耳が聞こえないためにいつも大変な苦労をしているということ,
耳の聞こえない人は手の動きで会話をするということ,
何より,その人が耳の聞こえない人かどうか見た目では分からないということ,
そのすべてに,子どもながら,ある種の衝撃を受けました。
そのドラマがすごく心に残り,後日,父にねだって本屋で手話の学習書を買ってもらったのを,よく覚えています。
その本が,私にとって最初の語学テキストになり,その後も長く私の本棚に並び続けることになりました。
今もあのときのドラマのいくつかのシーンを,はっきり覚えています。
なんであんなに心に響いたのだろう?
……と,深く考えるまでもなく,ヒロインの女性がすごく綺麗だったからに決まってるんですけど。
不純な動機で始めた手話は,ませガキが独学するにはちょっと難しくて,ほとんど覚えられませんでした。
そんな私ですが,手話には「日本手話」と「日本語対応手話」があることをきちんと理解したのは,比較的最近のことです。
手話についてよく知らない方がイメージするのは,おそらく「日本語対応手話」だと思います。
日本語の単語をそのまま手話に置き換えたものと考えてください。その意味で,日本語対応手話は本来の意味の手話(言語)ではなく,日本語の表現方法のひとつにすぎません。
日本語対応手話は,(生来の)ろう者ではなく,中途失聴者や難聴の方々,あるいはそれらの人と意思疎通しようとする健聴者にとって,覚えやすくて便利です。
日本の公立聾学校でも,ほとんどの場合,日本語対応手話が使われているようです。
私が読んでいたテキストも,日本語対応手話でした。
しかし,ろう者は日本語を学習してから手話を覚えるのではありません。それは不可能です。
幼児期までに,音声以外の言語によって思考と意思疎通の能力を獲得したうえで,はじめて音声言語としての日本語も学習可能になります。(それは,健聴者への幼年期英語教育の問題と同じです。まずは第一言語の習得が重要なのです。)
日本のろう者の第一言語は,日本語ではなく「日本手話」です。
日本手話と日本語は,語順や文法もまったく違う,別の言語だそうです。
むしろ,日本手話という独自の言語を(第一言語として)使う方々が,ろう者なのだと知りました。
ろう者は,夢も日本手話で見ると言います。
ろう者への公教育で第一言語である日本手話を使わないのは,明らかにおかしいと思います。
先日,休日の早朝6時過ぎから,とある住宅街の交通事故現場で,交通量調査やら写真撮影やら,一人であれこれやりました。
休みなのに,何しろ朝が早くて。
で,すっごく寒くて。あと,雨も降ってまして。
そのうえ,犬の散歩中のおばあさんとかに,めっちゃ不審がられまして……。
以前,公式ブログのほうで現場主義について書いたことがあります。(「HEROは,検事か弁護士か?」→このリンクは,浦和法律事務所公式ブログに飛びます。)
要は,受任した事件の現場になるべく足を運んで,紙の上の文字や写真では分かりにくい細かな状況をしっかり確認するということです。
現場主義はとても役立つのですが,一方で,とにかく時間を取られるのが難点です。体は一つですから,限られた事件でしか実行できません。手間も費用もかかります。
それも,ただ現場に行けばいいだけであれば,まだ楽な方です。事件や事故が起こったのとなるべく同じ条件で現場確認をしようとすると,早朝や深夜に無理矢理にでも時間を作って,遠方の現場まで出かけていくこともあるわけです。
というのも,現場主義が最も活きてくる三大事件は「交通事故・不動産・(否認の)刑事弁護」なのですが,中でも交通事故関係の事件は,できる限り事故発生時と「同じ条件」の現場を確認することが重要になります。
事件や事故の起きた時間帯や曜日,天候や季節などによって,事故の発生条件や結果との因果関係が大きく変わるからです。
平日と祝日の違いだけでも,交通量の差によって結論の違いを生じ得るのです。
もちろん,事件処理の経験を積んでいくと,書面上でじっくり考えるだけでも,色々なことに気付くようになります。
しかし,やはり実際に行かないと本当のところは分かりませんし,思い込みや間違いを発見できないことも出てきます。
たとえば,報告書の写真では夜でもやや明るく見えているが,実際の同じ条件の現場は非常に暗かったことを争う事件。
書面だけ見て,可能性としてすぐに考えるのは,
(故意か過失かはともかくとして)カメラの露出オーバーではないか,
事故日は曇天だったのに,写真を撮った日が晴れて満月だったのではないか,
日時の経過による日没時刻のずれが,きちんと補正されていないのではないか,
とかですね。
実際には,事故当時は街路灯を覆い隠していた木の葉が,写真撮影時までに枝打ちされて全部落ちてしまっていたから,でした。
証拠写真からは枝打ちされた痕跡を確認できなくても,現場に行けば分かります。
高額の費用をかければ,専門の調査会社や代行業者を使って,十分な時間をかけた現場調査により様々な資料を収集することもできます。
証拠集め目的なら,むしろその方がはるかに望ましいでしょう。力量に個々の差はあれど,弁護士のできる証拠収集には限界があるからです。
けれども,ここで言う現場主義の最大の利点は,弁護士自身が現場に習熟することにあります。弁護士が自己の現場体験に基づいて主張や尋問を行うからこそ,言葉が力を持つのです。
だから,行くべき時には,行くしかないのです。
……そんなふうに自分自身を鼓舞し,半泣きになりながらも,やっとの思いで布団から這い出た真冬のある朝なのでした。
男女の相性を誰でも正確に判断する方法があったらいいな,と思いますよね?
私の場合,弁護士という職業柄,もしそういう便利な方法があれば離婚やDVなどの無益な男女問題を減らせるのになぁなどと,世の中のために常に必死で考え続けているわけです。
決して自分のためとかではありませんよ。いや,そんな,まさか。
えー,そして,長年の経験と観察と研究を積み重ねた結果,男女の相性を決定づける特徴的な要因を発見しました。
実は,末永く仲の良い夫婦や心の通じ合っているカップルは,
ごく自然に,歩く速さが似ている
のです。
あれ? 割とつまらないですか?
確かに,早足の人はせっかちさん,ゆっくり歩く人はおっとりタイプ……,そんな程度の話では,当たり前すぎて誰も気にしないかもしれません。
ですが,これにはもう少し深い意味があります。
歩く速さ(歩き方)は,その人の性格や健康状態,何より「人生に対する態度」「生きることへの向き合い方」を象徴しているからです。
ごく簡単に言って,早足同士,ゆっくり同士の似た者タイプは,短期的に恋愛感情が燃え上がることは多くありません。似ているタイプの場合,自分にとって刺激が少ない相手ですから,最初はむしろ恋愛対象外であることが多いのです。
しかし,もともと人生の歩み方が似ている二人ですから,一度何かのきっかけで距離を縮めると,一緒に(人生を)歩くことがとても楽に感じる関係を築けます。生き方の波長が合いやすいということです。その結果,自然と,深く長い付き合いになっていきます。
結婚はもちろん,友人の延長のような,ほかほかとした恋愛関係に向いています。
これに対して,早足とゆっくりの差が顕著なほど,タイプの違う相手から強い刺激を感じやすく,急激に惹かれてしまうことがあります。いわゆる大恋愛をしやすいです。
けれども,もともと生き方の違う二人が長く一緒に過ごそうとすれば,どちらかが,あるいは,お互いに生きるペースを相手に合わせるための努力が必要です。
ちょっとした好き嫌いの違いに目をつぶるのと違って,本質的な人生との向き合い方が違うのですから,ずっと一緒に生きようとしたら結構大変です。
最初から分かっていればいいのですが,後になって相手と自分との生き方の違いに気付くと,一気に恋から醒めてしまうことも多いようです。
不倫に代表されるような,危険で秘密な火傷する恋に向く関係でしょう。
ただ,もし既に結婚しているなら,離婚には十分気をつけてください。
……これ,本気で役に立ちますってば。
もっとも,歩く速さで異性に惚れる人なんていませんから,これだけだと,惚れた後の相性診断の話で終わりです。
ところがこれは,今まで自分が好きになった相手と自分の歩く速さの違いを思い出してみることで,自分の恋愛タイプも分かるんです。
歩くスピードの違う人にばかり惚れていたなら,あなたは情熱的な恋愛を求める人。あなた自身が,熱しやすく冷めやすいタイプでもあります。そろそろ新しい出会いが必要かもしれません。
同じ速度で歩く人に自然と惹かれていたようなら,あなたはきっと家庭的な愛情を求めています。そんなあなたに合う人は,気付きにくいかもしれませんが,きっともう,すぐ近くにいるはずです。
……やっぱりこれ,結構すごくないですか?
調子に乗って,不定期連続講座の第1回目っぽいお題にしてしまいました。
そのうちまた,世の中のためになりそうな恋愛法則を発見したらご紹介しようと思います。
繰り返しますが,私はあくまでも世の中の困難な男女問題に立ち向かうことで社会正義を実現しようという弁護士法1条の崇高な目的のために研究しているだけですので,なんかの下心とかは一切ございませんので,どうぞ誤解の無きようにお願いいたします。
最近,DNA鑑定に関する事件や専門的研究を取り扱うことが増えています。
ひとつには,私が常に離婚などの男女関係の事件を多数抱えているため,父親と子どもの父子関係を争う事案を扱うことが多いからです。
しかも,以前は高額の費用がかかるために敬遠されがちだったDNA鑑定が,今ではかなり安くなり,民間に普及してきました。適切に行われた鑑定であれば,結果の信頼性も証拠としての価値も,非常に高いと言えます。
その分,離婚を争う両親が安易に子のDNA鑑定に走ろうとする傾向のあることは,やや気になります。子どもが幼いうちはまだ良いのですが,やっていることの意味や目的を理解できる年齢に達した子どもについて行うDNA鑑定は,その結果にかかわらず,子どもの心を大きく傷つけてしまう危険があります。
もちろん,たとえ実子でなくとも,育ての親と子の間に真実の愛情は成立するでしょう。父子間のDNA鑑定を行うことと,その父子の愛情の度合いは,論理的には,まったく別問題です。
しかし,その論理を子どもが理解して受け止められるかどうか,感情的には,やはり別問題なのです。
やむを得ずDNA鑑定を行う場合でも,子どもの心情に対する十二分の配慮が必要です。
こうした家事事件・民事事件に先立って,刑事事件についてDNA鑑定が問題となる場面が激増しました。
強姦事件で精液のDNAから犯人を特定したり,逆に,殺人の凶器に付着していた微量の血痕をDNA再鑑定したことで被告人の無罪が明らかになったりします。
技術の進歩により,採取された試料が極わずかでも鑑定可能な場合が増えました。そして,DNA鑑定に対する科学的信頼から,有罪・無罪の結論に決定的な影響を与える証拠とされることも多くなりました。
しかし,こうしたDNA鑑定には,見落としがちな大問題がいくつもあるのです。
中でも,民事事件・刑事事件に共通する最大の問題は,鑑定の際に用いられる試料(鑑定の対象物)が適切に採取・保管されたものか否かがわからない,ということです。
しかも,1回の鑑定で,大切な試料を警察が全部使い切ってしまい残りがない場合(「全量消費」),弁護側では確認のための再鑑定もできなくなります。
たとえば,父の髪の毛と子の髪の毛のDNAが100%一致しないという鑑定結果が出ていて,かつ,その鑑定方法や鑑定結果が科学的に100%正しくても,血縁上の父子関係が否定できない場合もあります。
なぜなら,その鑑定に使われた髪の毛が,その父子本人の髪の毛ではないことがあるからです。
つまり,鑑定に使われた髪の毛は確かにその父子の髪の毛だったという証明が必要です。
そしてその証明は,科学的な正確さの問題ではなく,試料(鑑定対象物)の採取と保管という極めて人間的な手作業の公正さの問題なのです。
人間の手作業である以上,単純な取り違えミスもあるし,人為的なすり替えや加工(証拠のねつ造)もあり得ます。そのような過程を裁判官が「科学的に信頼する」ことは,そもそも間違いなのです。
このような鑑定に関する様々な問題点について,今,法務研究財団の研究員として調査活動中です。
結果をご報告できるのは少し先のことになりそうですが,難しいながらも面白い研究になってきています。
でも,さすがに真面目な最終報告書に「DNAで愛は測れない」とかいう一章を書くわけには,いかないでしょうね。
泊まりで福岡に出張してきました。
事件は,私がさいたま家庭裁判所から専門職の成年後見人として選任を受けて,被後見人のために貸付金を回収しようとする民事裁判です。
法的に難しい点もなく,勝訴もしくは勝訴的和解による解決の見込みを持っていたのですが,とにかく最低でも一度は福岡地裁まで出向く必要がありました。
忙しかったので飛行機での日帰りも考えましたが,費用がかなり高額になり,和解協議となった場合の裁判の終了時刻が不明だったこともあって,なんとか時間を作って,新幹線とビジネスホテルがセットになった格安旅券を手配し,福岡で一泊することにしました。往復だけで13時間の長旅です。
しかし,これが当たりでした。
新幹線のグリーン車は電源が自由に使えて作業スペースも取れるので,行き帰りともにノートPCで書面作成に集中でき,仕事が非常にはかどりました。
夜は夜で,何も無いビジネスホテルですから,仕事しかすることがありません。
中洲などという楽しげな場所のことなど,私はこれまで見たことも聞いたこともありませんから,「ホテルから歩いてすぐ中洲じゃん」とか知っていたからといって,夜にふらふらと出歩いて遊び歩くなどということは決してありませんでしたし,ましてその晩にお酒など一滴たりとも飲んだはずがなく,ひたすら夜中まで仕事に没頭していたに違いないと思うわけですが,人の記憶は意外と不確かなものだという見方も無いとは言えません。
もちろん,福岡と言えば「豚骨ラーメン」と「もつ鍋」でしょう,なんてことを全く思いつきもしませんでしたので,ここで写真を載せて嬉しげにご報告するようなことも特にないのですが,私のスマホに不思議なデータが残っていましたので,よく分かりませんが何となく貼り付けておきます。
ともかく,予想どおり費用もかなり節約できましたし,時間も無駄にならず,裁判でも無事に和解が成立しました。
一幸舎,うまかったなぁぁぁ。
現在,交通事故事件を同時に何件か抱えています。
これは交通事故に限ったことではないのですが,同じ種類の事件をいくつも抱えていると,同時並行で,まったく逆の立場で仕事をすることもあります。
先日,同じ日の午前と午後に,続けて交通事故の被害者側と加害者側の双方の立場で裁判をしたことがありました。
いずれも,交通事故で被害者が死亡している過失運転致死等事件の刑事裁判で,被告人質問や求刑などを行う一番大事な審理期日でした。
一件は,加害者(被告人)の弁護人という立場での裁判。
法廷で,被告人と弁護人(私)の席の向かい側,検察官席の横には,被害者参加したご遺族と被害者代理人が座っておられました。
もう一件では,私が被害者のご遺族の代理人として,ご遺族と一緒に法廷に座りました。
弁護士として異なる立場を代理することは日常の景色ですが,真逆の法廷が同日に重なるのは,さすがに多少の奇縁と言えます。
交通事故の死亡事案は,人の命に直接かかわる事件の代表格のひとつです。
ご遺族の感情は,もはや言葉では言い表せないものがあります。
飲酒や無免許などの特に危険な運転行為であった場合はもちろんのこと,通常の過失運転でも,無保険車の場合とひき逃げの場合は,被害感情が段違いに高まります。これらの問題は,運転者において,いくらでも防ぐことができたはずだからです。
一方で,加害者もまた,人を殺してしまったという重荷を背負い,生涯,悩み苦しむことになります。
酷い運転者や反省のない犯人もいるにはいますが,多くの加害者は,自らもまた深い闇を抱え込みます。
それが交通事故事件である限り,誰かを傷つけようと思って事故を起こした人は,一人もいないのです。(車を凶器としてわざと人を殺した場合,交通事故事件ではなくなり,刑法の殺人罪などが適用されます。たとえば,秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで無差別に人を殺傷した事件では,殺人罪と殺人未遂罪が適用されています。)
誰であれ運転をする以上,思いがけず加害者となる可能性を強く心にとめておくべきです。
ただ,自分で運転をしなければそれでいいのかというと,そうではなく,人に運転させる場合には,運行供用者という立場での重い責任が発生することがあります。
タクシーに乗る場合とかは別として,誰かに運転をさせる,してもらう場合も,しっかりとした責任感を持ちたいですね。
とはいえ,実は,タクシーの事故率は一般車よりも何倍も高いという大問題がありまして……。
現代社会で生きていく以上,交通事故の脅威からは誰も逃げられないようです。
私の職場である浦和法律事務所は,さいたま市浦和区のど真ん中,JR浦和駅と埼玉県庁(さいたま地方裁判所)のちょうど中間地点,いわゆる県庁通り沿いにあります。
埼玉県庁には,花時計や桜の大樹があり,特に桜の季節は一面がピンク色に染まるような綺麗さです。
ただ,桜はすぐに散ってしまうので(それがいいのですが),ちょっとだけ物足りなく思っていました。
すると,数年前に県庁の裏手が緑化工事されることになり,今はイワダレソウ(岩垂草)などの緑や花が一面に広がっています。柔らかい小径と日当たりの良いベンチがあって,散歩やひなたぼっこに最高の場所になりました。
……と言っても,見ながら通り過ぎているだけで,一度もベンチに座ったことがないんですけど。
このイワダレソウは何故か一度すっかり枯れて,見る影もない根腐れ状態になったことがあり,これはもうダメじゃなかろうかと思ったのですが,その後,完全に復活しちゃいました。
今はこのとおりです。
いやぁ,いいですよね~。
しかし,大規模な緑化工事をしている時は,険しい顔つきで工事現場を眺めながら,
「無駄な税金を使いやがって! こんなもん,誰が頼んで,誰が喜ぶんじゃ。」
「緑化工事? ほっとけば雑草が生えて勝手に緑化するわ,ボケ!!」
などと散々悪態をついていた心の狭い男が,今では微笑みを浮かべてイワダレソウを眺めながら,
「いやぁ,いいですよね~。」
とか言っちゃって,いい気持ちになって歩いているんですから,緑と花の力はすごいっス。
そういえば昔,「県庁の星」という映画があって,織田裕二と柴咲コウがいい味を出していましたが,埼玉県庁には星のように輝く人がどのくらいいるでしょうか。
星にまでなれなくても,せめて県庁の裏手に咲く花のように,市民の心を癒やすお手伝いを心がけてほしいものです。
ちなみに,埼玉県の花はイワダレソウではなく,サクラソウですが。
歴史上,日本で一番高い山をご存じですか?
もちろん,富士山……ではありませんよ。
富士山は,一番どころか,二番目ですらありません。
当時,日本国内最高峰として明治天皇により名付けられたその山の名前は,
「新高山」
です。
有名な日米開戦の暗号文「ニイタカヤマノボレ1208」の,あの新高山です(真珠湾攻撃は日本時間で1941年「12月8日」の未明)。公式標高3952メートル。
台湾が日本領だった1985年から1945年の間,台湾最高峰「玉山」が,富士山を超えて紛れもなく日本最高峰でした。
ちなみに,2番目は「次高山」(雪山)です。ちょっとネーミングが安直な気はしますね。
日本と台湾の関係に限らず,国家が他国や他民族を統治・支配しようとすれば,必ず抵抗や軋轢を生じます。
「賽徳克・巴莱(セデック・バレ)」(※繁体字は日本漢字に置き換えています)は,日本時代の台湾における最大の抗日暴動・霧社事件を題材にした台湾映画です。
以前から観たかったのですが,なんせ第1部:太陽旗が144分,第2部:彩虹橋(虹の橋)が132分,合計4時間半以上という長丁場。で,先日やっとのことで,しかし一気に観ました。
霧社事件は,1930(昭和5)年10月27日,セデック(賽徳克)族マヘボ(馬赫坡)集落の頭目モーナ・ルダオ(莫那魯道)率いる約300人の原住民が,霧社(現在の南投県仁愛郷)各地の駐在所を襲い,民族合同で開かれていた子どもたちの運動会を襲撃して,女性や子どもを含む日本人のみ130人以上を殺害した凄惨な出来事でした。
台湾総督府(日本政府)は,直ちに軍隊を派遣し,圧倒的な武力で制圧。反乱に直接加わった6つの集落(社)の人口千数百人のうち,およそ700人が戦死または自死,500人以上が投降または捕らえられました。
対する日本人及び日本に味方した原住民の死者は,いずれも20数人であったとされています。
暴動は同年12月上旬には完全に鎮圧されましたが,その後の歴史も,川中島強制移住や第二霧社事件など,容易には語りきれません。
悲しい歴史ではありますが,あえて誤解をおそれずに言えば,この霧社事件を大きな転機として,日本は台湾統治の在り方を変え,台湾人への差別をなくし,莫大な国費を投じて台湾を豊かにしたとも言えます。
しかしそれは,別の面ではいわゆる皇民化政策でもあり,後の高砂義勇隊へとつながりました。
現代においても,世界中で同じような悲劇が繰り返されています。
殊に,一方的に統治・支配を行っている国が,武装した敵対者をすべて「テロ」と呼んで片付けるのを見聞きするにつけ,人間の変わらぬ愚かさを感じずにはいられません。
過去の日本が霧社事件に多くを学んだように,願わくば現代の日本も「テロとの戦い」に手を貸すことがないようにしてほしいと思います。
「セデック・バレ」は非常に素晴らしい映画でしたが,本編で丁寧に前置きされているとおり,あくまでも史実を脚色しています。
しかしそれでも,歴史的事実に基づく人間の業の描写は,心を抉る巧みさがありました。
この映画を観る日本人,台湾人,台湾原住民が,みなそれぞれにどんな想いを持つのか……。是非一度,モーナたちのように一つの杯で同時に酒を酌み交わしながら,じっくりと語り合いたいものです。
あ,でも私と一緒に飲むときはカルピスサワーとかにしてください。
私は普段,昼食をほとんど食べません。
食後の満腹感で集中を途切れさせたくないし,たとえ食べるつもりでいても,日中のオンタイムはずっと忙しくしていることが多いので,気がつくと夕方になっていることがしばしばです。
それでも,ちょうど昼を挟んで外出の用事があるときは別です。特に,事務所のあるJR浦和駅周辺を離れると,あまりお腹が空いていなくても,つい美味しそうなお店を物色してしまいます。
旅先と同じで,普段と違う出先の街の知らないお店に入り,まだ食べたことのない味と出会う貴重な機会。有効利用しないと,なんとなく人生を損した気分になりませんか?
実際のところは,外出先からとんぼ返りが普通で,「今日も人生を損した!」と舌打ちばかりしているのですが,ときどきは無理してでもランチタイムを取ります。
弁護士業務において,埼玉県内,さいたま市内のミニ出張・外出仕事の定番と言えば,さいたま地裁・家裁の県内各支部(越谷,熊谷,川越)や簡裁・出張所(大宮,久喜,飯能など)での裁判や調停と,それこそ県内各地にある警察署での接見(面会)です。
そのため,支部裁判所や警察署に行くたびに,何故か周辺をうろうろしてしまう私がいます。
でもって,ついつい目が止まるのは,ラーメンとインドカレーなんです。
これは国内旅行の旅先でもそうです。漁港の街とかに行って,海の匂いを感じながらカレーとナンを食べてたりします。
先日も,時々訪れる警察署の近くで未知のインドカレーのお店を発見してしまい,接見の度に何度も通いました。
……いや,カレーを食べる度に接見(面会)してたのかな?
ランチで食べると,手を洗っても指先がしばらく茶色いままなのが難点ですね。打ち合わせの時,ちょっと恥ずかしい。
私がまだインドに行ったことがなかった頃,日本でふらっと入ったインドカレー屋で,見知らぬ老夫婦に話しかけられたことがありました。何でも,「海外旅行が趣味でインドにも何度か行ったが,カレーはやっぱり日本で食べた方がうまい」とのことでした。
そのときは,そんなものかと思って聞いていましたが,その後,自分でインドに行ってみての感想は,
「カレーはやっぱりインドでしょ!」
です。
2週間弱のインド滞在中,朝食以外では,1回だけ「チャイニーズ」と称する謎の味付けの料理を食べた他は,毎食カレー,カレー,カレー……でした。
が,まったく飽きませんでした。
まぁ,好きだからと言えばそれまでですが,とにかく美味しかったです。
お店それぞれで日本では手に入りにくいようなスパイスをふんだんに使っているからでしょうか。未知の味をたくさん経験できました。
ただ,日本で常識のふっくらと甘いナンは,どのお店でも食べられるというわけではありません。そこは日本のほうがちょっと上,なのかも。
実際,台湾料理だと日本で本場の味に出会うことはほぼ皆無なのに,日本のインドカレー屋さんは,本場の味に近いところが多いです。
カレーは,もはや日本人の国民食だと思います。
でも,本当のこと言うと,2週間ほどのインド滞在中,確かに毎日のカレーには飽きませんでしたが,お腹を壊して何も食べられなかった日が丸2日間ありました。
しかも,インドで一番楽しみにしていた超々美味しいと評判のお店に行くはずの日。
「這ってでも行くぞ」と心を決めていたのに,宿から一歩も出られませんでした。
……あんときは,死ぬかと思った。
「接見には,這ってでも行くぞ」と懲りずにまた心に決めたところで,お口直しにラッシーをどうぞ。
弁護士の相談料の相場は30分5,000円(+消費税)からで,私の場合も基本的には同様です。
これを,「ただ話すだけなのに高すぎる」と感じる人もいて,それはそれで別におかしくはありません。価値観の問題です。
ただ,問題を抱えた際に専門家のアドバイスを得る機会が遅れると,結果的にトラブルは大きくなりがちで,解決も困難になって長引き,かえって費用も嵩む場合があります。
ギリギリまで相談を迷ったり後回しにしたりしていて,どうしようもなくなってから,「相談」ではなく「依頼」をしたいんだと駆け込んでくる方が,実に多くおられます。
弁護士の相談料とよく比較されるのは,医師の診察料ですね。
しかし,医師には国民皆保険制度があるので,そのまま料金を比較することはできません。
しかも,初診料や薬の処方などの諸費用が伴うのが普通で,診察だけで終わることもほとんどありません。それに,診察は診察だけであって,治療しなければ病気は治りません。
でも,弁護士の法律相談は,相談料だけで解決・終了するケースが,かなりあります。
というわけで,相談の料金に関しては,医師の診察と比較するのは正しくないと思います。
ほかの弁護士が誰も本当のことを言わないので,私がはっきり言いましょう。
弁護士の相談料は,「占い師の見料(相談料)」と比較したらいいんです。
だって,お客様が自分の抱えた問題やトラブルについて,赤の他人にお金を払って解決のヒントとなるアドバイスを聞こうとするのですから,近いというより,ほとんど同じものでしょう。
でもって,どっちかと言えば,法律相談のほうがちょっぴり実用的で,むしろ安いと思うんです。
それで,私はよく冗談交じりで,こんな話をしちゃいます。
「私が占い師だった頃,見料は今と同じ30分5,000円,弟は家庭教師で2時間5,000円でした。母は漫才師で5分で5万円,父はペテン師で3分100万円でした。」
「……」
「わかるかなぁ,わかんねぇだろうなぁ(笑)」
「……ははは(わかんないんですけど?)」
これ,松鶴家千とせを知らないと全然笑ってもらえないわけですが,ともかく,相談料については医師じゃなくて占い師と比べてもらったらいいと思います。
大企業の社長やトップ政治家など,重大な決断を迫られるポストにいる方々には,占いを人生の指針の一つとしている人が多くおられます。
ただ,あまり他人には言いませんね。変に誤解されることがありますから。
優れた占い師による占いというのは,言わば天から降ってくるアイデアのようなものです。
現実社会にまみれた自分の過去の経験や感情からは決して生み出されない発想で,物事の別の一面を象徴的に切り取ってくれます。それを自分なりに柔らかい頭で解釈し,自分の抱えた問題に対する新しい解決の視点を探るのです。
あるいは,既に半ば心を決めた重大な決断について,背中を押してもらうためのスイッチにする人もいます。
いずれにしても,成功者の方々が占いを積極的に利用するのは,占いを「信じている」からではありません。それが自分にとってどう役に立つかをわかっていて,アドバイスの上手な使い方を心得ているのです。
これは,弁護士の法律相談でも,究極的には同じなんです。
弁護士による法的アドバイスを受けても,それを上手に使える方と使えない方がいます。
専門家によるアドバイスの大切さを理解できる方にとって,法律相談は決して高くはないはずです。なにしろ,「ただ話すだけ」で問題を解決してしまうことすら,あるんですから。
力のある経営者の方が,わざわざ相性の良い弁護士を探してまで顧問契約を結ぼうとするのは,良質の相談の機会を優先的に確保するための安い投資だと考えるからです。
ところで,先ほどの「私が占い師だった頃」のお話。実は,私に関してだけは本当です。
小さい頃から,四柱推命,奇門遁甲,紫微斗数,西洋占星学,インド占星学,タロット,カバラ,易占,相術などを学んでいて,司法試験の勉強を始める前には,わずかですが占い師として小銭を稼いだ時期もありました。
その後,何年も頭の中に法律を詰め込んでいたら,占いの知識は驚くほど忘れ去ってしまいました。
でも,今もタロットカードを数十種類もコレクションしたりしています。きっと,燻るものがあるんでしょうね。
占いができると女の子と話が弾むから,とかでは決してございません。
ま,法律より占いのほうが恋愛に役立つのは間違いないんですけど。
あと,こういうのもあります。
「俺が昔,占い師だった頃,弟は陰陽師だった。お袋は霊幻道士で,親父はキョンシーだった。……わかるかなぁ。わかんねェだろうナ。」
台湾なんかでは,歩いていると道端になっているバナナを見かけたりします。
で,こういうのを見ると,よく「バナナの木」と言ってますが,違います。
まず,「バナナの木」なんて,おそらくこの世に存在しません。
実は,バナナは木に見えますけど,あれは「草」です。
木の幹のように見えるところも,葉っぱみたいのが重なり合ってできた「茎」。もっと正確に言うと,本当の茎は地下にあり,幹のように見えるのは「偽茎」と呼ぶそうです。
ちなみに,バナナは草だから,果物ではなく野菜なんじゃないか,という話もあります。
このバナナ,漢名は「芭蕉(ばしょう)」です。そう,松尾芭蕉の芭蕉なんです。
なんで俳人の名前がバナナ(芭蕉)なのかは諸説あるようですが,私たちがイメージするところのバナナにちなんだ,わけではなさそうです。
というのも,芭蕉は,たしかにバナナ(の仲間)のことなのですが,日本で普通に「芭蕉」と言った場合は,私たちが考える果物のバナナとはちょっと違う種類の草(木)を指すのです。
芭蕉は食用バナナよりも寒さに強いので,日本でも探せば割とそこら中で見付けられます。ただ,見た感じが,いわゆる食用バナナの草(木)とそっくりなので,芭蕉のことを知らないと「こんなところにバナナが生えてる!!」と思って結構驚きますね。
食べる方のバナナは,実芭蕉と呼んで区別することが多いみたいです。(芭蕉の実も,どうにかこうにか上手くすると食べられるらしいです。)
では,西遊記に出てくる「芭蕉扇」はご存じですか?
牛魔王の妻である鉄扇公主(羅刹女)が持つ秘宝で,大風を起こして火焔山の燃え盛る炎を消すことができるとされています。この芭蕉扇を巡って,孫悟空とチチ,じゃなかった鉄扇公主や牛魔王が大バトルを繰り広げるのです。
その芭蕉扇も,バナナの葉の形に似ていたのか,バナナの葉から作られていたのか,それとも,高級扇と言えばバナナ(型)でしょ……てなことが当時の常識だったのか分かりませんが,なんにせよバナナなんです。あと,西遊記に,かめはめ波は出てきません。
と,ここまで来てやっと本題ですが,年々,ブログの炎上や名誉毀損的な書き込みの削除など,ネット上でのやり取りの中で生じたトラブルの相談が増えています。
弁護士として一定の法的対応の仕方はありますので,どうにもならなくなる前にご相談ください。着手が早ければ早いほど,良い解決につながります。
もっとも,顔の見えない匿名環境は,自覚の薄いままに,極めて悪質な犯罪者や悪ノリしたネットストーカーを生み出します。時機に遅れた安易な対応は,火に油を注ぐことになりかねない難しさがあります。
ネットは,いわば燃えやすいガソリンの撒かれた山。いつ炎上するか分からないのです。
芭蕉扇のように,ネット上に燃え盛る炎を消してくれる秘宝や特効薬があるといいですよね。
大体,炎上するような書き込みをする人は,カーッとなって周りが見えない状態で,自分の主張をひたすら連投するという精神状態です。自分で自分が見えていません。
書き込みをする前に,芭蕉扇つながりで美味しい台湾バナナでも食べて一息つくように気をつけていれば,それでもう最初から火なんて付かないのです。
だから,バナナは炎上に効くんです。
けどそこ,別にバナナじゃなくてもよくない?
3つの言葉を,人が大切だと思っている順番で表現してみる……(by Hu MacLeod)。
すると,こうなるみたいです。
I love you.
ま,これが普通の人なんですよね。
この話を聞いて,考えました。
もし,
I Love you.
だったら?
……きっと愛にあふれた聖人,仏様のような人でしょう。
いつかそうなりたいと,心から思います。
じゃあ,
I love You.
だったら?
これだときっと,ストーカーですね。
……と言おうかと思ったけど,真実のストーカー心理って,実際はこうなんです。
I love you.
そのことに自分では気付かないとき,人はストーカーになります。
これはDVも同じです。
もちろん,広い意味での心理作用は,犯罪をしてしまう人って,みんなそういう状態だと言えます。
ただ,ストーカーやDVの場合は,恋愛対象であったはずの特定の相手(You)がいるので,あたかも自分は相手のことを想っているかのように錯覚しやすい,という特徴があるんですね。
感情をクルッと裏返しにするだけで,人は聖人にも犯罪者にもなります。
この話の元ネタ(一番上の「I love you.」)を書いたのは,ヒュー・マクラウドというイラストレーター兼マーケッター兼いろいろやってる人。
ある日,ニューヨークのバーで飲みながら暇つぶしにあることをし始めた結果,信じられないような大成功を収めた人です。
あることって何でしょう?
名刺をクルッと裏返しにして,そこに思いつくままの落書きをし続けたのです。
ただそれだけ……。
あなたも,思い切って自分の何かをクルッと裏返してみると,もしかしたら人生が変わるかもしれませんよ。
有名な「ウサギとカメ」の昔話をご存じですよね。
「もしもしカメよ,カメさんよ」の童話イメージが強くて,つい日本の昔話のように思えますが,もともとは「イソップ物語」の輸入品です。
『歩みののろさを兎から馬鹿にされた亀は,競走での勝負を挑みます。
やはり兎は圧倒的に速く,余裕をかまして途中で昼寝。
兎が寝過ごす間に,亀はゆっくりと着実に進み続け,遂には先にゴールして勝利!』
という物語ですね。
では,この話の主役は誰だと思いますか?
昔は,ウサギだったようです。
明治時代の国語の教科書には,ズバリ「油断大敵」という題名で,このウサギとカメの物語が載っていました。自信過剰や油断を戒める教訓を読み取るわけです。
しかし,最近では,どちらかというとカメが主役とされています。
真面目にコツコツと頑張る人が最後には勝つというようなメッセージを受け取るんですね。
私は,いずれの解釈も間違いだと思います。
もし,ウサギを主人公だと考えるなら,油断以前の問題です。
だって,ちょっと冷静に考えてください。こいつ(ウサギ)は,人格(ウサギ格)がゆがんでいますよ。
ウサギは,意味も無くカメを誹謗中傷してわざと逆上させ,前後の見境のなくなったカメが苦し紛れに勝てるはずのない勝負を挑んで来たとみるや,そのくだらない勝負に嬉々として応じています。これは,勝って当然の勝負に勝ち,カメの「のろまさ」を公衆の面前で暴き立て,ここぞとばかりにカメを思いっきり馬鹿にしてやろうという企てです。カメに対して,計画的に徹底した精神的追い込みをかける「イジメ」そのもののやり口です。
この話から,「ウサギは油断さえしなければ勝てて万歳だったね」なんていう教訓を読み取る人は,どうかしてるんじゃないでしょうか。
また,もしカメを主人公だと考えるなら,カメはただのアホです。
だってそうでしょう。カメが挑んだ勝負に,客観的な勝ち目がありましたか?
いいえ。勝てるわけがありません。
カメは利口で,ウサギがきっと油断するに違いないとプロファイリングで読んでいたのでしょうか?
いいえ。ウサギが油断しても,それだけではカメは勝てません。
たとえ昼寝をしても,それでもカメが勝てるとは限りません。
ウサギが「たまたま寝過ごしてしまった」から,カメは偶然に勝てたんです。
カメは,ウサギが油断することまではプロファイリングできても,昼寝してしまうとか寝過ごしてしまうかどうかなんて,まったくのウサギ次第。カメにはコントロールできない事情です。
カメは,怒りにまかせて勝てる見込みのない勝負を挑み,たまたま勝ってしまっただけなのです。
勝てるはずのない勝負を挑んでも真面目に頑張ればきっと勝つに違いないなんて,そんな大嘘を教え込んじゃいけませんね。
では,カメはどうすればよかったのでしょうか?
カメはウサギに対して,水泳(潜水)で勝負を挑むべきでした。
これは,特に中小企業のビジネス戦略における極めて重要なヒントを含んでいます。
敵を知り,己を知る。自分の強みを活かし,敵の弱い(いない)ところで勝負する。
それができれば,必ず小よく大を制するでしょう。
ただし,カメがウサギに一服盛ったという可能性も,私としては捨てきれないところです。
売買や賃貸借契約,離婚や相続など様々な場面で,不動産に関連する契約や事件を数多く扱います。するとその都度,不動産とは一体何なのか,特に「土地」とは一体誰の物なのだろうかと考えてしまいます。
たとえば,あなたが,ある土地を所有しているとします。
その土地は,本当にあなたの物ですか?
あなたが,自分のものであるはずのその土地を自分のために使うに当たっては,実に様々な規制(法的制約)を受けます。
不動産取引の重要事項説明書の標準書式には,宅地建物取引業法施行令第3条1項に定める55個の法令上の制限についてのチェックリストが附属して様々な制限を警告するほか,法令上の規制に関するその他の注意事項が羅列されます。要するに,あなたの土地でやってはいけないことの詳細で膨大なリストが添付されます。
自分で自分の家をデザインする注文住宅が流行で,ちょっと素敵な気もしますが,実際には,自分の家を建てるはずなのに,面積も,高さも,容積も,そのほか色々と自由にならないことばかり。注文を付けられているのはこっちのほうだと言いたくなります。
そもそも,私たちは土地を「平面」として考えがちですが,法的・経済的な意味での土地とは,決して「地面」のことではありません。地面の上と下の空間利用価値のことです。
そしてそれは,あなたがよく知らないうちに,非常に狭い空間に限定されてしまっています。
あなたの土地(家)の上の空を飛行機が飛んでいても,「領空(所有不動産の上空)侵犯だ」などという文句は言えません(騒音や振動は別です)。
今,「ドローン」がちょっとした話題ですが,あなたの土地(家)の上をドローンが飛んでいたとしても,ただ飛んでいるだけであれば,おそらく何も文句は言えないでしょう(盗撮等は別です)。
(ただし,空の法律はかなり曖昧です。航空法等で,飛行機は建物から300メートル以上の高さを飛べといった制限はありますが,明確にあなたの土地所有権が空のどこまで及ぶのか,はっきりしていません。)
あなたの土地の地下に地下鉄が走っても,あなたは文句を言えません。
(こちらは法律が割とはっきりしています。大深度地下の公共的使用に関する特別措置法・同施行令という法律で,原則として地表から40メートルを超えれば公共の利益となる事業に使われてしまうからです。)
まぁ,こういったことは,ある種,当たり前のことではあります。
確かに,空が土地所有者の物なら,宇宙の星や月も土地所有者の私物になりかねません。
地下がすべて土地所有者の物なら,「ブラジルの人」が困るでしょう。
それにしても,土地とはどこまで誰の物なのか,という疑問は残ります。
法的・経済的に言えば,中国などの例を持ち出すまでもなく,資本主義自由経済下のこの日本であっても,土地は究極的に国家の所有物です。「そんな馬鹿な」と思う方は,固定資産税の支払いを何年か止めてみれば,そのうち思い知ることになるでしょう。
つまり,土地は何人も所有できず,一定の範囲で管理できるだけであるとも言えます。
そしてそれは,国家・政府においても,究極の究極において,きっと同じなんです。
根源的な意味で「もともとどこかの国家に所属する(領有される)土地」なんて,どこにもないのです。
もっとも,根源的に人が所有できないのは,なにも土地には限りません。
この世にある全ての物は,おそらく誰にも所有できないのです。
だって,人は裸で産まれて裸で死ぬのです。最初に持っていた物,あなたがあなたであるための唯一否定し得ない所有物であるはずのこの体さえも,死ぬ時には置いていくしかないのですから。
そんなことを考えながらコンビニで買ったサンドイッチを囓っていると,
「でも私は,今,確かにこのパンを所有しているぞ」
とか思ってしまうのでした。
アリとキリギリスのお話をご存じですか?
知っている? 本当に?
夏の間,アリが必死に働いているときに,自分は歌って遊んでばかりいたキリギリスが,冬になって食べ物がなくなり,アリに助けを求める話ですね。
では,その後は?
日本では,ほとんどの場合,キリギリスを哀れんだアリが食料を分けてあげて,施しを受けたキリギリスも改心し「これからは,きちんと働くぞ」と心に決める,という良い話になっています。
わかりやすいですね。
しかし,イソップ物語の原作では,アリはキリギリスを助けません。
「夏には歌っていたんだから,冬には踊ればいいさ。」
アリは,なかなかに非情なのです。
もちろん,アリにとって,死んだキリギリスは素晴らしい「餌」であることを忘れてはいけません。
アリの最後のセリフは,じゅるじゅると涎を垂らしながら言ったものなのです。
そのため,アリとキリギリスの話を,倹約家の冷酷さを揶揄する寓話と読む人もいます。
ただし,そもそもイソップ物語のギリシャ語原典に,キリギリスは出てきません。
元々は「アリとセミ」の話なのです。
物語がヨーロッパ北部に広がっていく過程で,熱帯・亜熱帯に生息するの昆虫である「蝉」が「キリギリス」に置き換わったのではないかなどと言われていますが,本当のところは分かりません。
セミだとしても,話の筋は,あまり変わらないようにも思えます。
実際,原典では,セミとキリギリスの違いなんて関係なさそうな感じです。
しかし,ちょっと見方を変えると,「セミ」は,今までとはまったく違う大人の哀愁を漂わせることになります。
一般に,セミは短命と言われますが,それは地上に出てからの話。
幼虫時代は数年から十数年にもなり,昆虫の中でも,むしろ長生きなほうです。
なんで長生きできるかというと,とにかく天敵を避けて地下に潜り,木の根っこにしがみついて,ひたすら栄養の少ない樹液だけを少しずつ少しずつ吸いながら,寒い冬を何度も耐えて生き延びるからです。
言っとくけど,これ,よっぽどアリより凄いよ。
しかも,そうして生き延びた先に待っているのは,わずかな夏の,昼夜を問わぬ大合唱と乱交パーティー。
ひたすら交尾に命をかけるその意気込みたるや,セミ,お前ら本当に凄いよ。
アリとセミの物語は,本懐を遂げたセミが,弱り切ってアリに食べ物を乞う場面です。
……このときセミは,自分が死ぬであろうこと,そして,いずれアリの餌になるであろうことを,確実に知っていたはずなのです。
それでもセミは言います。
「俺はすべてに耐えて生きた。この夏のためだけに。そして,夏を歌い切った。やるべきことはすべてやった。もう思い残すことは何もない。……けど,ちょっと疲れたよ。腹が減っちまったのかな。体が動かねぇや。……アリよ,最後に一服だけ分けてくれないか?」
一瞬の輝きのために幾度もの冬に耐え抜き,たった一輪のバラを咲かせ,静かに散っていくセミの生き方。死を覚悟してなお格好を付ける,ハードボイルドな複眼。
大人として,結構,美しいじゃないですか。
ちなみに,どうやら野生のセミは,羽化した時期が秋に近ければ1か月くらい生きるらしいです。
ただ,真夏に羽化したセミは,割と早く死んでしまいます。
なぜなら……
セミは暑いのが苦手だから。
そのアホっぷりが,またどうにも憎めないヤツなのです。
以前のこのブログで,一審の裁判員裁判で有罪となり,東京高等裁判所に控訴していた外国人被告人の強姦致傷事件について少しだけ書きました( 2014年8月31日の法律夜話「私は,無実です。」はこちら )。
一審から振り返ります。
検察官の求刑は懲役10年でした。
被告人・弁護人は無罪を主張し,事件は基本的に被害者女性の作り話であると主張していました。
被害者は,深夜,当日初対面だった一人暮らしの男性被告人の家に上がり,何時間か一緒にいて,お酒もかなり飲んでいました。その後,強姦行為があったというのです。
もちろん,家に無理矢理連れ込まれ,強引にお酒を飲まされたというのが被害者の主張でした。
一審判決はどうなったでしょうか。
普通,全面的に無罪を争った結果として負けてしまう(有罪判決になる)と,判決での量刑は「重く」なる傾向があります。
そもそも,有罪の被告人について判決で量刑が「軽く」なる最大の要因は,被告人が真摯に反省し,被害者に謝罪して可能な限りの被害弁償を行っていることなどにより,被告人の再犯の可能性が減って更生への期待が高まり,被害感情がわずかながらも慰撫されて社会全体の応報感情も低下すると考えられるからです。
しかし,犯罪事実の有無を争って無罪主張をする被告人には,反省の弁を述べる機会はないのが普通です。謝罪や賠償も考えられません。被害者と敵対することも少なくありません。
多くの場合,むしろ自分がえん罪の被害者だと主張することになります。
被告人の無罪主張が判決で認められれば良いのですが,もしも認められず有罪判決となる場合,被告人の刑が軽くなる要素は,かなり少なくなります。
もちろん,刑事事件を専門とする弁護人であれば,無罪主張をしつつも,万が一の場合に備えた情状を上手に織り込んで主張し,有罪判決となっても不利にならないよう周到に準備するでしょう。しかし,いかに経験豊富な刑事弁護人でも,無罪を争いながら行う情状主張には限界があります。
そのため,もし有罪となれば,検察官の求刑どおりか,それに近いような重い判決も覚悟する必要があります。
しかし,この事件の一審判決は,懲役6年でした。
実際には,そのまま判決が確定して服役する場合でも未決勾留日数を差し引くので,5年8か月程度の刑になります。
事件を認めていないし,もちろん反省もしていない被告人に対して,検察官求刑の半分近い判決でした。
判決文は,検察官と被害者の主張をほとんどそのまま認めて被告人を有罪としていましたが,その後に続く文章では,何度読み返してもよくわからない理由で,被告人の刑を軽くしていました。
まるで被害者と被告人の主張の中間を取ったような判決でした。
被告人は控訴し,引き続き東京高等裁判所で審理が行われました。
東京高裁は,ほとんど審理をしませんでした。
どんな控訴事件でも,普通は短時間の被告人質問くらいは採用するのですが,この事件では,それすらもしませんでした。弁護側から提出された数多くの書証のうち,ごくわずかを採用して取り調べただけでした。
弁論は丁寧で分厚いものでしたが,主張の内容は一審と同じです。証拠が一審とまったく同じで,新しい証拠はほとんど何も採用されていないのですから,必然的にそうなります。
東京高裁での審理は,ものの数分で終わってしまいました。
判決期日は,およそ3週間後となりました。
そして,東京高裁は,被告人に逆転「無罪」を言い渡しました。
判決の内容は,一審及び控訴審の弁護人の弁論と,ほとんど同じでした。
一審の裁判員裁判の事実認定が不自然であったことを,正面から認めたのです。
おそらく東京高裁の裁判官は,最初に一審の記録を見た時点で,すぐに一審判決がおかしいことに気付いたのでしょう。
そのため,控訴審として自分たちが無罪判決を書くために,新しい証拠や審理は特に何も必要ないと考えたのだと思います。
だから,あえて何もしなかったのです。
その後,無罪判決は確定し,被告人は自由と名誉を取り戻しました。
一審が裁判員裁判であった場合について,裁判官だけの控訴審が一審判決を覆すことに,一部で批判が向けられています。
それでは,一般市民が長期間苦労して裁判員として参加し,審理・判決する意味がないというのです。
……それは違います。
人間は誰でも間違えるのです。
ときに裁判官が間違えるように,一般市民も,やはり間違います。
裁判員裁判でも,裁判官裁判でも,同様に間違いを正す制度が必要なのです。
ただし,控訴は被告人・弁護人だけに認めれば足ります。検察官による控訴を認める必要はありません。
検察官は,絶大な国家権力と国家財政をフルに用いて,一市民である被告人に対する一方的な犯罪捜査を行ったうえで被告人を裁判にかけて,それでも一審で負けたのです。
そのような検察官(国家)に対して,一市民を蹂躙するための二度目のチャンス(控訴の権利)を与えるべきではありません。市民が国家から訴追される危険(責務)は,一度限りのものなのです(これを,「二重の危険の禁止」原則と言います)。
これが刑事司法の国際標準なのですが,日本では認められていません。
裁判員裁判であれ,裁判官裁判であれ,否定されるべきなのは検察官による不利益控訴なのです。
ちなみに,本件は私が国選弁護人として一審にかかわった事件です。
被告人は原則として国選弁護人を選ぶことができず,それは控訴の場合でも同様です。
控訴審は,一審の国選弁護人がそのまま控訴審の国選弁護人となることを認めませんでした。
つまり,控訴審の弁護人は私ではなかった,ということです。
控訴審の逆転無罪判決を受けた私の率直な印象は,こうでした。
「だからそれ,一審で(私が)言ったじゃん……」
最近,裁判前の示談交渉事件を受任する割合が,以前よりも増えている気がします。
私の場合,以前から裁判外の代理人交渉を依頼されることは何故か多かったし,裁判前に交渉だけで解決する事件の割合も高かったのですが,このところ,さらに顕著な増加を感じるのです。
日本全体で見ても民事の訴訟事件数は年々減っていますから,弁護士増員の影響と相まって余計そう感じるのかな,などと思っていました。ですが,どうも違うようです。
単純に,私が受任する事件の中で訴訟事件が減って交渉事件がかなり増えた,という印象です。
理由を色々と考えてみて,思い当たることがありました。
そう!
私には武術や格闘技の経験があるので,数少ない「寝技が得意な弁護士」なのです!!
……これは違うな。
もともと私の武術は基本的に打撃系が中心で,投げ技はともかく寝技はそれほど好きじゃありません。
大体,男同士で寝技を練習するというセンスが気に入らない。
……いや,そういうことじゃない。
だが,待てよ。
そういえば,受任する交渉事件のうち,交渉の相手方が女性である割合がやたらと高いような気がします。
そうか! 寝技と言っても,そっちかっ!!
それなら好……じゃなくて,得意っ…………な……の,か??
それはともかく,これまで受任して交渉で解決してきた多数の事件を振り返ってみると,正直言って,ほかの弁護士なら,そもそも受任していなかっただろうと思われる事案が,かなり含まれています。
特に刑事事件を多く扱っていると,結果的に困難な示談交渉に立ち向かう機会が多くなります。
まったくお金のない被疑者・被告人の謝罪文一通だけを携えて,重大犯罪の被害者と示談交渉することも日常茶飯事です。
たとえ,最初から最後まで一方的に不利で,まったく見込みのないような示談交渉でも,最大限の努力と誠意を尽くさなければなりません。
そのせいか,民事事件の相談を受ける際にも,困難な交渉事件に対する抵抗感がほとんどなくなります。
普通の弁護士なら「無理だ」とすぐに断るような事案でも,「可能性はかなり低いが,それでもよければやってみましょう」ということになりやすいし,実際,やってみなければわからないものです。
もちろん,法律相談で甘い見通しを言うことは決してありません(むしろ,私はリスクの説明を厳しくしすぎる傾向があると思っています)。無理なものは無理です。明言します。
しかし,事案に潜むわずかな解決策の可能性に気付くことができれば,リスクを承知で,それに賭けてみる余地はあるでしょう。
ちなみに,私が考える示談交渉で最も大切なことは,話のうまさでも,腰の低さでも,押しの強さでも,色々な意味の寝技でもありません。
対立する双方の主張をまとめて,双方にとって利益となる優れた解決策(妥協案)を提案する能力です。これは,法的知識と経験を背景として,ある種のヒラメキによって生み出されるものではないかと思います。
交渉相手の多くは強い怒りをもっており,示談で紛争が良い方向に解決できるなんて信じようとしないし,示談のメリットもなかなか理解できません。
しかし,長引く紛争は,怒りだけでなく,同時に疲れや苦しみをもたらすものです。
良い示談交渉とは,すなわち,紛争の良い解決のための努力と工夫であり,それができていれば,交渉終結後に必ず笑顔でお別れできるのです。
榛名神社(群馬県高崎市)に行ってきました。
これで何度目かのお参りになります。
歴史上の確実な初出は延喜式神名帳(927年)ですが,第31代用明天皇(585~587)の時代には既に創建されていたとも言われます。最近では関東屈指のパワースポットとして有名です。
パワースポットなどという根拠不明の軽薄な横文字は本当のところあまり好きじゃないのですが,そのほうが伝わりやすい時代なので,仕方ないですね。
古い表現で言うと,風水上の龍穴(天地の気が集中する場所)に位置すると思われ,神域に求められる様々な条件を満たした神社です。細く長い参道に滝や巨岩などの見所も多く,厳かというよりは,むしろ柔らかい空気感のある素敵な場所だと思います。
ところで,皆さんは「風水」について,どのくらいご存じでしょうか。
よく知られているのは,西に黄色を置くと金運がアップする,とかのアレですね。
そういった日本のグッズ商法に伴う風水の知識がまったくの嘘とは言いませんが,本来の風水の姿とは,かけ離れたものです。賢い消費者は騙されてはいけません!
風水の別名は「地理(地理風水)」。これと対になる言葉(分野)は「天文」です。
歴史上の出発点を正確に述べることは誰にもできませんが,さかのぼれる限りで見た風水と天文は,古代人が地上(地球)と天体(宇宙)を詳細に観察することによって発展させた学問であって,国家経営の指針そのもの(今で言う「占い」)でした。
風水が国家によって都市計画のために使われると,それは都の選定と築営の基礎知識となりました。
風水による都市計画は,古代の中国王朝や日本の平城京・平安京などの都に用いられ,さらには江戸を引き継ぐ現代の東京も,明らかに風水によって守られています。
さらに,風水が権力者一族(個人)の繁栄のために使われるようになると,それは城(屋敷)や墓所の設計図となりました。
こうして,主に家に使われるために進化した風水が陽宅風水,墓所に使われるために発展した風水が陰宅風水です。
日本で流行っている風水グッズは,この陽宅風水の上澄みを集めて作られた,言わば「風水おもちゃによる箱庭療法」みたいなものです。
真の風水は,天文や符呪,仙道,道教の教えと複雑に絡み合い,今も様々な流派に別れながら密かに伝承されています。
中でも,ある一派では,道士となるための全伝を求める弟子に対して,師が,
「孤(孤独)」
「夭(夭逝・短命)」
「貧(貧困)」
のいずれかを選ばせます。
弟子は,深遠な智慧と強大な力を得る代わりに,いずれかの一生涯の毒(呪い)を引き受けるのです。
あなたなら,どれを選びますか?
まだ若かった私は,三日三晩,激しく悩んだ末に……3つのどれも怖くて選ぶことができず,泣く泣く道士となることを諦めました。
そして,紆余曲折の末,なぜか弁護士になったのです。
そんな私は今,家の中のあちこちに何やら小さくて派手な色のかわいらしい飾りが年々増殖していくので大変困っています。
だって,とりあえず金運と恋愛運と健康運グッズは外せないじゃないですか。あと……。
いや,もうこれは消費者被害だな。効果無いし。いつか訴えてやるっ。
久しぶりに京都への出張がありました。
日弁連法務研究財団の研究の一環として龍谷大学で行われる法科学研究会に出席し,DNA鑑定について勉強してきました。
で,難しいことはおいといて,京都と言えば舞妓さんなわけです。
綺麗ですよね~。可愛いですよね~。
……たぶん。
いや,だって舞妓さんの素顔って,ほとんどわかんないじゃないですか。
女性の着物姿は,それだけでもう300%くらい素敵になるわけですけど,舞妓さんの場合,そういうのとはちょっと違うと思うんです。
しつこいですけど,素顔はほとんどわからないんで。
すっごく近くでまじまじと顔を見たらわかるのかもしれませんけど,まあ普通はそういうことはできなくて,なんとなくの雰囲気に初めから負けているわけです。(何の勝負をしているのだろうか?)
つまり,舞妓さんというのは,お化粧やお着物に立ち振る舞い,それと鈴の鳴るような声で話される独特の言い回しが,全体としてとても美しいわけで,素顔はそうでもない……じゃなくて,どうでも良い……いや違う,そう,言わば「謎を秘めている」わけです。
と,そんなふうに夢を失い,ひどく冷めた思いを抱いていたときが,私にもありました。
しかし!
彼女は違った!!
美しいというのはこういうことなのでしょうか。
写真では十分に伝わらないと思いますが,ホントに綺麗でした。
これもDNAの問題なのでしょうか。
思わず,ほしくなりました。
「いくらですか」と聞きたくなりました。
誤解しないでください。
この表現で何も問題ないのです。
なぜなら,彼女には,美しい素顔とは別の謎と秘密があるから……。
彼女は,ロボット(というか人形)なんです。
英語で話しかけると,英語で天気予報を教えてくれます。
う~ん,残念。
本物の舞妓さんだと,やっぱりアップでこういうわけには……おっと,そこまでだ!
刑法学(犯罪学)における有名な論争として,非決定論と決定論の争いがあります。
法学部の1年生や2年生が,最初の頃に学ぶ論点です。
法学というよりは,むしろ哲学的な言い争いであるため,実務とはまったく関係ありません。
ですが,どうにも知的興味を誘って心を捕らえる話なのです。
ごくごく簡単にまとめると,こうです。
伝統的な考え方である非決定論は,人間の自由意思を認めます。
人は,その自由な意思に基づいて行動すると考えるのです(そのため,非決定論のことを意思自由論とも言います)。
だからこそ,自らの意思で犯罪行為をした者に対して,刑罰という道義的な非難を向けることができると考えます。そして,やってしまった罪へのむくい(応報)として,その罪と等しい重さの罰を与えるのです。
それによって,犯罪行為の軽重と処罰を世間に知らしめることができ,犯罪は自然と防止されます。
刑罰は,軽すぎても重すぎてもいけません。万引き犯を無期懲役刑にすることは許されないのです。
これに対して,決定論では,人の行動は素質と環境により決定されていると考えます。
たしかに,純粋に科学的な視点に立つと,人に完全な「自由意思」があるなどという非決定論の前提自体が,既に幻想なのでしょう。
すると,DNAや生育環境や脳内電気信号で決まってしまった行動(罪)に対して,道義的非難(応報)など無意味です。
大切なのは,二度と罪を犯さないように国家が素質と環境を矯正することです。刑罰とは,個々の犯罪者の更生に向けた教育活動なのです。
そうなると,再犯防止のために必要な教育の範囲で刑罰が認められるのですから,犯した罪との均衡は問題になりません。再犯がないと確信できれば強盗犯でも処罰する必要がないし,痴漢をやめられない人には教育効果が上がるまで刑罰に何十年かけてもよいのです。
さて,皆さんならどちらが正しいと考えますか?
どっちも正しいような気がします……。
実際,応報刑と教育刑はどっちも大事で,実際の刑罰でも両方の考え方が使われています。
しかし,理屈の上では,両方とも正しいというわけにはいきません。
人間に自由意思があるのか,ないのか?
人間の行動はあらかじめ決定されているのか,いないのか?
どちらかしかあり得ないのです。
この論争は,人間に対する本質的理解の違いから出発しています。これについて真剣に考え出すと,堂々巡りでキリがありません。いわゆる「答えのない問題」のひとつだとも言えます。
しかし,刑法理論の出発点であるこの論争にどうにかして応えなければ,犯罪と刑罰について自分の考えを論じることはできないのです。
両派の考え方を止揚する第三の学説が色々と試みられていますが,まだ誰もが納得するような答えは提示されていません。
そのため,学者や法律家は皆,この問題について,いったん自分なりの「仮の答え」を出さなければなりません。そして,そこから自分の立場や考え方を積み上げるようにして導くのです。
それは,砂上の楼閣を築いては壊し,築いては壊す,果てしない道程にすぎないのでしょうか。
それもまた,人間という存在の本質なのかもしれません。
今日,11月23日午前10時ころ,靖国神社の男性用公衆トイレの個室に爆発物が仕掛けられ,爆発があったとのことです。天井に穴が空いていたとか。
ちょうど新嘗祭のはじまる時刻でもあり,連休中で家族連れなど人出も多く,賑わっていた時でした。
靖国という場所柄,犯人像については,言わずもがな日本国民の多くが同じ想像をするでしょう。
そのことがとても残念だし,また,とても怖いことだと感じます。
私たちは普段,通り魔的な事件を見聞きする度に,「防止する方法がないから怖いよね」といった話をします。マスコミの論調もそうです。
けれども,何か事件があったときに国民の誰もが「同じ想像」をしてしまう状況こそ,実は,通り魔なんかよりも,ずっと怖いことなのではないでしょうか。
フランスのテロ事件を機に,今,ヨーロッパを中心とした諸国で無差別テロへの恐怖が高まっています。
日本は欧米を支援して実質的にイスラム国と戦闘している状態にあるのですから,日本で同様の恐怖感が高まっていないことのほうが不思議です。
テロと戦う国になるということは,そういうことです。
誰が犯人であれ,今回の靖国爆発事件を起こした者にとって,フランスのテロ事件がひとつの心理的きっかけであった可能性が極めて高いと思われます。
そういう意味で,この事件は,フランスのテロ事件と軌を一にするものと言えるでしょう。
ところが,マスコミの多くが,今回の靖国爆発事件を「ゲリラ事件」と報じています。
どうして「テロ事件」でないのでしょうか?
これはおそらく,警察発表を鵜呑みにする日本のマスコミの報道姿勢の結果です。
なぜなら,日本の警察発表では,対人攻撃をテロ,対施設攻撃をゲリラと呼んで区別することがあるからです。
今回,爆発したのが公衆トイレであって,人的被害が出ていないことから,警察はこれを「ゲリラ事件」として記者発表した可能性が高いのです。
しかし,通常の用語では,「ゲリラ」は「遊撃」の意味であり,少数で奇襲等を行う戦法・戦術(またはその部隊)を指します。なので,日本の警察用語は不適切です。
そもそも,今回の靖国爆発事件が対施設攻撃だったのか,対人攻撃であったのか,まだわからないのではないでしょうか。(時限式の発火装置が見付かっているとの報道が事実であれば,対人危害を排除していたとは言いにくいですね。)
マスコミには,もっと言葉に気を遣って,主体的で責任ある調査と報道をしてほしいと思います。
もっとも,今回の靖国での事件を「テロ」だと報道するとしたら,それはそれで馬鹿馬鹿しいように思いますね。
「ゲリラ」という表現は本来の意味が異なるので少し気になりましたが,では何と表現すべきなのか?
本当のところ難しい……というより,その区別には意味が無いと考えます。
何がテロで,何が戦争で,何が虐殺行為で,何が単なる犯罪なのか,それを誰が決めるのか,それが決まると何か違いがあるのか。
そこに,何も違いはないはずです。
「テロ」との戦いで遠距離から巡航ミサイルを大量に撃ち込んで兵士と民間人をまとめて殺す行為も,やっぱり同じ「テロ」でしょう。
それは,犯罪でもあり,戦争でもあり,虐殺でもあります。違いはありません。
個人であれ,組織であれ,国家であれ,誰がどうやっても,それは,ただただ下劣なだけの行為だと思います。
日本時間の12月13日未明に,パリで開催中のCOP21(国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議)において,新たな温暖化対策の枠組み(「パリ協定」)が採択されました。
地球環境のために,各国が利害を調整して立ち向かおうと合意することは,大変素晴らしいことです。
ただ,世の中は善人の善意だけで成り立っているわけではありません。
表面的な報道だけで直感的に良し悪しを安易に決めつけてしまうことには,慎重でありたいと思います。
たとえば,地球温暖化問題にしても,温暖化の主な原因を人為排出の二酸化炭素に求める通説的見解に対して,様々な科学的批判がなされており,それに対する通説からの反論,再批判,再反論……というように,延々と繰り返されているのが現状です。
地球規模での気候変動としては,むしろ寒冷化に向かっており,ごく近い将来(たとえば2030年頃など)には氷期に入るといった説も,根強く主張されています。
つい最近も,温暖化による海面上昇の犯人だったはずの南極の氷が,減るどころか,むしろ増えていたという観測結果が発表されて話題になりました。ご存じでしょうか?
もちろん,その観測結果に対しても,陸氷と海氷の増減率の違いとか,海氷形成のシステム分析とかで専門的な議論がまだ続いており,南極の氷は増えているから温暖化は嘘だという考えも,早計なのでしょう。
しかし,私も含めて科学の専門家でない一般人の多くは,南極の氷が溶けて海面が急上昇しているという報道や報告をこれまで繰り返し聞かされていて,それこそが温暖化の証拠であり,かつ,温暖化による地球環境破壊のシンボルであると受け止めてきたはずです。
それがそもそも嘘だったとしたら,温暖化説の出発点からもう,あやしく感じてしまいますよね。
温暖化対策の枠組みは,少なくとも年間1000億ドル(約12兆円)以上というすさまじい金額を巡る国家規模の駆け引きですから,その実態は,汚染された工業廃水よりもドロドロとしたものなのかもしれません。
二酸化炭素の排出量をお金に換えるための排出権取引など,その典型です。
ただし,二酸化炭素を主原因とする地球温暖化説が本当であるとしても,あるいは,嘘や間違いであるとしても,いずれにせよ私たち人間の営みが,今この瞬間にも地球環境に対して巨大な悪影響を与えているであろうことは,否定しようのない事実だと思います。
二酸化炭素を主原因として地球温暖化が進んでいるかどうかは,本当のところ私にはよくわかりません。
けれども,二酸化炭素等の温室効果ガスを大量に排出することが環境への悪影響を招くことは,直感的に理解できます。原子力問題だって,そうです。
「何とかしなきゃ」と思うのは,ものすごく自然な善意なんだと思います。
大切なのは,私たち個々人と,その集合体である各国家が,地球環境を我が事として考え,協力していくことですよね。
……そして,もしそうだとすると,多くの人が,そもそも温暖化が本当なのかどうか科学的に議論されていることすら知らずに,「排出規制が合意できて良かったね」と手放しに喜んでいるとしたら,それで果たして環境を「我が事」として真剣に考えていることになるのかな? と,やっぱりちょっと慎重になってしまうのです。
目に見えていることが真実とは限らないし,善意が善行になるとも限りません。
それでも,もし人の善意が無ければ,世の中は決して良くならない。
この社会を支える土台や根っこの部分で,私たちひとりひとり心の中のちっぽけな「善意」が積み重なっていくことで,世の中は,必ず少しずつ良くなっていく。
それだけは,間違いないはずです。
今年もクリスマス・イヴを迎えます。
日本では,「1年で最も多くのカップルがHする日」とか言われちゃってますが,もちろんイエス・キリストの誕生を祝うはずの日です。(誕生日は違うんですけど。)
しかし,「一緒にイヴを祝おう」なんて甘い言葉を囁いて,とりあえず酒を飲ませて予約したホテルに……とかって,それ何を祝ってるんですか?
まったくもって,うら,けしからん。
大体,クリスマスの前日の夜に「クリスマス・イヴを祝う」とみんな言いますが,どうして前夜を祝うんでしょうか?
たいていの日本人は,これを新年のカウントダウンみたく考えて,25日のクリスマスになる0時ちょうどの瞬間を大切な人と一緒に迎えて祝うために,その前夜を一緒に過ごすんだ(という口実でお泊まりに誘うんだ)と思っているようです。
自分は真面目なキリスト教徒だという友人から,そのようなことを聞かされて言葉に詰まったこともあります。
これ,違いますからね。
そもそも,イヴは前夜じゃありません。クリスマスです。
イヴ(Eve)の語源は`Evening'と同じ。日没後の意味です。
「だったら『前夜』でも大体あってるからいいじゃん」と思うかもしれませんが,そうじゃないんです。
イヴは,もうクリスマス当日なんです。「前」じゃないんです。
キリスト教で用いられる教会暦では,日没と同時に日付けが変わるんです。
なので,キリスト教で言うクリスマスは,24日の日没から25日の日没までが正確です。
つまり,クリスマス当日になった瞬間である24日の日没(夕方)を祝うことから,クリスマス・イヴと言われるんです。
だからイヴは,もうクリスマスなんです。クリスマスそのものをクリスマス当日に祝っているのであって,前夜を祝っているのではありません。
まぁ,日本では教会暦を使っていないので,公式の暦で25日に切り替わる0時ちょうどをもって「クリスマスになった瞬間」を祝うんだと言うのなら,それは必ずしも間違いではないでしょう。
ただ,もしそうであれば,言葉本来の意味でのクリスマス・イヴは,日本には初めから存在しないのです。単に「クリスマスを祝う」と言うべきです。
あるいは,25日の日没(夕方)であれば,もしかすると日本の暦でのクリスマス・イヴだと言えるかもしれませんけど,なんか祭りの終わりを祝うような哀しいことになるでしょう。
いずれにしても,12月23日をイヴイヴとかって言われると,もう何が何だか判りません。
で,クリスマスと言えばサンタクロースなわけで,誰かプレゼントください。
いや,それはおいといて,サンタクロースの起源ではないかと言われているのが「聖ニコラオス」というキリスト教の聖人です。
無実の死刑囚を救ったなどという数多くの伝説を残す人物です。
そのクリスマスの近づいた今月18日に死刑の執行をした日本政府の面々には,間違ってもクリスマスやサンタクロースの話題で笑顔を振りまくのはやめてほしいなと思います。
来年9月頃には,マザー・テレサが「聖人」に列せられることが決まったそうです。
彼女の偉大さや素晴らしさを否定する人は,日本のどこにも,誰も,いないでしょう。
そして,彼女が日本の死刑制度に強く反対するであろうことは,誰しも想像に難くありません。
なのになぜ,彼女の伝えた「愛」を理解できるはずの私たちは,まだ死刑制度を廃止できないままなのでしょうか。