埼玉・東京エリアを中心に活動する弁護士吉岡毅の本音ブログ「法律夜話」の過去ログです。
こちらのページでは,これまでの法律夜話から,事件や裁判,法律や司法制度などに関する内容を含む記事をまとめてお読みいただけます。(裁判などに関するある程度の説明やコメントが含まれている記事は,関連する部分が少ない場合でも,なるべくここに入れています。)
一番上が事件や裁判に関連する最も古いブログ記事で,上から下に向かって順に新しい記事になり,古い記事から最新記事まで順番に読むことができます。
時代劇の中で,お金をもらって悪を討つ『必殺仕事人』は,法の目で見ればただの人殺しのはずですが,悪人の死という結果からみると,正義の味方であるとも感じられます。
それは,ドラマにおいて視聴者は神であり,神の目ですべての事実を正確に見通しているからです。
現実の我々は人であって神ではありません。
人は過ちを犯します。
自分には何が正義かが先にわかっていて,それに適えば正義,適わないと不正義だという発想は,人として傲慢のはじまりではないでしょうか。
人が得られるのはあくまでも「人の正義」であって,「神の正義」ではありません。
我々は,考えられる限りの過ちをひとつひとつ排除した慎重な手続を経て,公平中立に事実を捉え直した結果として,やっと「人の正義」に到達するのです。
こうして得られた「人の正義」は,事実のある一面を捉えただけかもしれませんが,そこに辿り着く過程が正義であることによって,多くの人が納得できます。これを「手続的正義」と呼びます。
正義と呼ぶに値しない手続の結果得られた結論は,もしかすると「神の正義」には合致しているのかもしれませんが,もはや「人の正義」ではあり得ないものです。
したがって,悪人を捕まえる警察が重大な違法行為をすれば,人の正義は成立せず,捕まった犯人は無罪となります。
弁護士は,一見すると正義の味方には見えないときもありますが,「人の正義」を真に価値あるものにするために,誰かがやらなければならない仕事なんだと信じています。
昨年(※2006年)12月30日,イラクのフセイン元大統領の死刑が執行されました。判決確定から4日後の処刑という異常な早さでした。
フセイン氏が絞首刑にかけられる衝撃的な映像が,今もインターネット上に流れ,誰でも見ることができます。
フセイン氏に対する評価は,ここでは措くとします。
しかし,生きた人が処刑される映像を実際に見れば,「死刑執行」という現実の出来事に対して,少なからぬ残虐性を感じるはずです。
フセイン氏の処刑ほど知られていませんが,そのわずか5日前の昨年(※2006年)12月25日には,日本でも4名の死刑確定者の絞首刑が執行されています。
日本の場合,その執行の様子が公開されることはありませんが,そこにはフセイン氏に対する死刑執行を上回る凄惨な現実があったということを知っておいてください。
今回日本で死刑が執行された4名の中には,77歳と75歳の老人が含まれています。
いずれも再審請求準備中の執行でした。
うち一人は全く歩くことができない状態で,車いすで介護を受けて生活していました。誰かが彼を無理矢理絞首台まで引きずっていかなければ,死刑の執行はできないのです。
国家が正義の名の下に行う殺人には,「死刑」と「戦争」という二つの方法があります。
その残酷な現場をできる限り見せないこと,詳細な情報を隠すことによって,国民の無関心又は扇情的な支持が獲得されていく点で,両者はよく似ています。はたして,私たちはそれでいいのでしょうか?
私は,死刑にも戦争にも,絶対に反対します。
(『事務所ニュース 2007年2月号』より)
最近,大麻の栽培等による逮捕者が続出しています。
大麻(=マリファナ)とは,七味唐辛子の中の種で有名になったように,実はただの麻です。
麻は,人間の生活にとって欠かせない植物ですが,あるときは禁圧されて魔女のように扱われます。
麻は,吸引すると一般的に気持ちよくなり,大麻取締法が極めて重い刑罰を定めていることから,たとえば覚せい剤と同じようなものだと思われています。
しかし,麻は学問的にも法律的にも「麻薬」ではありません。
精神的身体的な依存性はありません。
吸い続けても耐性上昇(次第に摂取量が増えること)はほとんどありません。
麻はそもそも身体に有害ではありません(どれだけ多量に摂取しても致死量すら想定できない)。
中毒症や胎児への影響もなく,犯罪や暴力行動を誘発する薬効もありません。
麻の摂取による人への具体的悪影響は科学的にまだ実証されておらず,お酒やタバコの有害性とは比較にもなりません。
覚せい剤等の危険な薬物へのステップになるとか,暴力団等の違法な収入源になるといった批判もありますが,これらは麻を厳しく取り締まっている結果です。
むしろ,マスコミなどで危険視されているはずの麻が,全然中毒にならないことを実体験でつい知ってしまい,覚せい剤も同じようなものだろうと考えて破滅する人さえ出てきます。
麻を無条件に解禁してよいものかは,私にはわかりません。
しかし,私たちの常識とか善悪の観念に基づく規範ほど諸刃の剣となりやすく,新たな魔女を生み出すことがあるのも確かです。
様々な愛称を持つ麻は,ときに特別な感情を込めて女性の名でこう呼ばれます。
「メリー・ジェーン」と…
(『事務所ニュース 2009年2月号』より)
先日,埼玉県立浦和高校で講演をしてきました。
ご存じ県内有数の進学校です。
これは,埼玉弁護士会の「刑事弁護の充実に関する検討特別委員会」で行っている法教育活動の一環として,県内の高校を中心に,刑事弁護や人権についての特別授業をするものです。
私は,こうした法教育活動を毎年いろいろな学校で行っています。
今回の浦高の授業は2日間に分かれ,1日目の授業で私が刑事裁判について講演し,間をおいて2日目の授業では,刑事裁判に関する議題で生徒たちのディベート大会が開かれ,私はその審査員として講評を行うのです。
なんというか,この時点でもう「さすが浦高」という感じです。
私が講演のテーマに選んだのは,「日本の刑事裁判の問題点~裁判員制度で何が変わり,何が変わらなかったか~」でした。
講演の中身の話は,別の機会に譲りますね。
とにかく,私自身の意見は控えめにして客観的な解説を心がけました。
私の講演を受けて,後日のディベート議題は「裁判員制度を廃止すべきか?」でした。
生徒たちはYESとNOに分かれて討論しますが,自分がどちらの立場に立つかは,授業当日の最初のジャンケンで決まります。
つまり,事前の準備はYES・NO両方の立場でしておかなければなりません。
人ごとながら,大変だったでしょうね~。
さて,今回のディベートの結果は,大差で「YES(裁判員制度は廃止すべき)」側が勝利しました。
(※勝敗判定は生徒全員によるジャッジで決まります。)
といっても,どうやら最初のジャンケンの時点で,既に勝負は決していたみたいです。
何しろ,ジャンケンに勝つともうガッツポーズ,ジャンケンに負けると海より深~く落ち込んでいましたから。
みんな「裁判員なんて,やりたくない!」という素朴な感覚が強くて,裁判員制度に積極的な意義を見出せなかったようです。
うーん,そこか……。
ま,普通はやりたくないし。素直が一番です。
現実の法律は,一度出来てしまうと,そう簡単に廃止なんかされてくれません。
世の中は素直じゃないですね。
先週いっぱいかけて,強姦致傷事件の裁判員裁判の弁護人として公判を担当していました。被告人は外国人ですので,通訳を介した裁判です。
逮捕後,一貫して無罪を主張し,法廷でも無実を訴えました。
被害者の主張とは真っ向から対立しています。
検察官の求刑は,懲役10年。
判決は,無罪ではなく懲役6年(未決勾留日数100日を算入)でした。
残念です。被告人は,即日控訴しました。
無罪主張が破れ,判決で「反省がない」と非難されたのに,どうして求刑の10年から懲役6年にまで大きく減軽されたのか?
……などなど,書きたいことはたくさんあるのですが,控訴審で無罪を争う未確定事件ですので,この事件の具体的事情は,いずれまたここでご報告したいと思います。
それはともかく,通訳を介した裁判というのは,実に難しいものです。
たとえば,あなたが裁判員に選ばれた裁判で,被告人が,
“I am innocence.”
と言ったとします。
それを通訳人が,
「私は,無実です。」
と訳すか,
「オレは,やってねぇ。」
と訳すかの違いで,あなたの被告人に対する印象は1ミリも影響を受けないと,断言できるでしょうか。
もし印象がほんの少しでも異なってしまったとして,それは被告人に責任のあることでしょうか。
そして,驚くべきことに,警察の捜査や刑事裁判でプロの通訳人として仕事をするために,語学力に関する資格は一切不要なのです。
私の所属する日弁連の刑弁センター制度改革小委員会では,数年前から司法通訳について研究と立法提言を続けています。
来週の土曜日には,弁護士と通訳人向けのシンポジウムを開催し,私がその司会をする予定です。
それについても,またご報告しますね。
昨日,2014年9月6日(土),日本弁護士連合会主催の法廷通訳シンポジウム
「ただしく伝わっていますか? あなたの尋問 ~裁判員裁判時代の通訳人と弁護人の協働のために~」
が開催されました。
弁護士と通訳人のみを対象とした非常にニッチな題材の3時間にわたる長時間のシンポジウムです。それほど大規模な宣伝もしていません。主催者側である私たち日弁連委員としても,何人くらいの人が集まっていただけるのかと,正直言って不安でした。
ところが,ふたを開けてみれば,あっという間に会場からあふれ出すほどの人が集まり(本当にあふれたので中継室をご用意しました),同時中継した全国の会場と合わせて300人もの皆様にご参加いただき,大盛況となりました。
参加者の大多数が現役の司法通訳人の方々でした。
もちろん,すべては私の華麗なる総合司会ぶりのおかげです(嘘)。
いや,司会をしたのは本当ですが,素晴らしかったのは報告者やパネリストの皆様です。
元裁判官や現役通訳者の方に本音を語っていただけたことも,大変好評でした。
これを機会に全国の通訳人の方々と刑事弁護を扱う弁護士が連携し,法廷通訳を魅力ある専門職とするために,人権感度の低い法務省・最高裁を動かして,司法通訳の資格制度などの法整備を本格的に進めることができるかもしれません。
法廷通訳の新しい時代が,このシンポジウムから始まるような気がします。
シンポの中では,裁判で誤訳が問題となったケースや,海外調査報告,通訳に関する様々な研究・実験の結果など,いずれも事前に内容を承知していたとはいえ,当日のアドリブ部分を含めて面白い話がたくさん聞けました。
たとえば,外国人の刑事裁判の冒頭で,
「とても,緊張,して,います。」
と,口の中をカラカラにして絞り出すように語り始めた被告人の言葉を,通訳人が,
「私は,たくさんの人々から注目を浴びています。」
とスラスラ訳してしまったことで,まるで愉快犯のように思われてしまった事例。
もちろん,これは初歩的な誤訳の例として出た話にすぎませんが,わかりやすかったです。
(ちなみに,その通訳人は,“tention”と“attention”を聞き間違ってしまったわけです。)
でも,会場で一番うけていたのは,代々木公園の隣に事務所を構えている弁護士のデング熱パニック自虐ネタでした。
ま,それはそれでよろしいかと。
2日間の名古屋出張から帰ってきました。
先週金曜日(2014年9月12日)に,名古屋で日本弁護士連合会主催の第13回国選弁護シンポジウムが開かれ,その実行委員の一人として前日準備からずっと参加していました(プロフィールの「公的役職」の項を参照ください)。
決してひつまぶしを食べに行っていただけではありません。食べましたけど。
国選弁護シンポジウム(国選シンポ)は,刑事弁護に関する日弁連最大規模の公開シンポで,2年に一度,全国各地で開かれています。今回も,弁護士を中心に600名を超える人々が一堂に会しました。
刑事裁判を受ける被告人が国選弁護人を選任できることは,憲法で認められた日本国民の権利です。
しかし,2006年に被疑者国選弁護制度が実施(2004年制定)されるまで,起訴前の被疑者(勾留中の容疑者)が国選弁護人を請求できる制度は,まったく存在しませんでした。
いつまでたっても被疑者の国選弁護制度を作ろうとしない国に代わって,1990年以降,全国の弁護士がお金を出し合い,負担を分け合って当番弁護士制度を作り,ボランティアで被疑者の弁護活動を続けてきました。
被疑者国選弁護制度の立法化は,弁護士会が長年にわたって市民のために要求し続けた結果として,やっと実現したものです。その原動力のひとつが,この国選シンポでした。
しかし,今の被疑者国選制度は一定以下の軽い罪を制度の対象外としているため,国選弁護人を選任できない被疑者がたくさんいます。
また,そもそも制度の対象者を勾留後の被疑者だけに限定しているため,逮捕されただけでは国選弁護人を請求できません。
そのため,逮捕されてから勾留されて国選弁護人がつくまで(2泊3日)の間に,厳しい取調べを受けて虚偽の自白をさせられてしまう人もいます。
その隙間を埋めているのは,今でも当番弁護士制度なのです。
今年までの日弁連の努力の成果として,来年か再来年には被疑者国選制度が勾留後のすべての事件に拡大される見込みになっています。
しかし,逮捕後すぐに国選弁護人を請求できる制度にしなければ,えん罪が今後も量産され続けます。
今回の国選シンポの副題,「さらに一歩を! 逮捕からの充実した弁護」は,制度改革のために国と戦い続ける全国の刑事弁護人の強い想いの現れなのです。
うん,今,良いこと言った。
弁護士のよく使う法律用語が,世間一般に使われている言葉と違うことがよくあります。
法律相談などでお話しするときには,できるだけ気をつけて普通の言葉に言い換えているのですが,時々ぽろっとそのまま出てしまいます。
弁護士として,誰にでもわかりやすい話し方を心がけたいですから,一般の方々に伝わりにくい用語の存在に気付いたら,その都度,心にとめておくようにしています。
といっても,明らかに難しい言葉の使い方で困るようなことはありません。難しい専門用語ほど,普段から説明し慣れているからです。
たとえば,「瑕疵(かし)」とは,通常は無いはずの欠点や欠陥のことで,傷や過失を意味することもあります。法律の中に「瑕疵担保責任」とか「隠れたる瑕疵」という用語が出てくるので,説明を避けて通れないことがあるのですが,こういう言葉はそれほど問題になりません。
困ることが多いのは,読み方だけが普通と違う法律用語や,漢字を見ればすぐにわかるけど普段はあまり使わない言葉,別の言い方が一般的に受け入れられている場合などです。
たとえば,「遺言」は,普通に読む場合は「ゆいごん」ですが,法律家は「いごん」と言います。この種の専門用語は「こいつ,弁護士のくせに漢字の読み方も知らんのか」と誤解されることもあり,気をつけなければいけません。
耳で聞いただけだと一瞬とまどう言葉の例は,「しりょく」ですね。
これは,勝訴判決の効力や法テラスの審査,国選弁護の説明などで必ずと言っていいほど出てきます。
漢字で書くと「資力」です。文字を見れば,資金力,要するにお金や資産などの経済力があるかどうかだということはすぐに分かります。
ところが,日常会話ではあまり出てこないので,はじめて聞くと分かりにくい言葉です。
また,「被疑者」は,より一般的な言葉の「容疑者」に,「接見」は「面会」に言い換えないと,最初はうまく伝わらないことがあります。
なんにせよ,打ち合わせでなら,いくらでも説明できます。
恥ずかしいのは,見ず知らずの人にたまたま会話を聞かれて,誤解されてしまうときです。
たとえば,ちょうど西川口駅(川口警察署の最寄り駅)を通過する電車の中での弁護士同士の会話。
「そういえば,昨日の夜は西川口で降りて『接見』に行ったんだけどさ。」
「おっ,どうだった?」
「それが,まだ女子高生で,ウブな感じでね。こんなところは初めてなんだって。もちろん,ばっちり『否認』だよ。」
「いいじゃない。やりがいあるでしょ。」
「まぁね。忙しいんだけど,つい『また明日も来るからね』って約束しちゃったよ。疲れてるけど,今日も頑張って帰りに寄るつもり……」
この辺りで,はっと気がついたときには時既に遅し。数人から痛い視線を浴びることになります。
※西川口は風俗店が多いことでも有名です。「石鹸」だの「避妊」だの,電車の中で滅多なことを言うもんじゃありません。
青森に出張となった。現地での証人尋問である。
証人が高齢で遠方への出張不可能であったため,裁判所外での尋問を行うことが決まった。裁判官や書記官,双方代理人弁護士らが,連れ立って新幹線に乗り込む。
事件は,白昼の県道で発生した交通事故であった。
被害者は,声優を目指して専門学校に通い始めたばかりの女性。自転車で道路を横断しようとしたところを,直進してきた加害車両に追突された。ほぼ即死だった。目撃者はない。
加害車両の運転者は,被害女性がスマートフォンをいじりながら,突然フラフラと車道に出てきたと主張した。
たしかに,被害者がスマホのゲームにハマっていたという友人の証言があった。また,現場には被害者のスマホが落ちていた。しかし,事故の衝撃で壊れていて,事故当時に電源が入っていたのかすら分からない。
一方で,加害車両には,衝突までにブレーキをかけたり減速したりした形跡がなく,かつ,被害自転車の横から衝突していた。脇見や居眠り運転の可能性を否定できない。
何より,加害者は任意保険に加入していなかったうえ,これまで一度も真摯な謝罪の態度を見せていなかった。
被害者は,はたしてスマホゲームに夢中だったのか?
加害者は,よけることができなかったのか? 死人に口無しを決め込んでいるだけなのではないか?
被害者の母が法廷で証人に立ち,「もう一度,娘の声を聞きたい。娘に真実を語ってもらいたい」と,泣き崩れながら語った。
法廷の誰もが,ただ沈黙した。
そして私は,亡くなった被害者本人の証人尋問を,裁判所に請求した。
無論,裁判官も相手方代理人も,誰もが訝った。
「死者の証人尋問など,どうやってやるのですか?」
「恐山のイタコに,亡くなった被害者の口寄せをしてもらいます。ご遺族の希望どおり,是非とも被害者の真実の声を聞いていただきたい。ただし,イタコは皆ご高齢ですから,青森への出張尋問をお願いします。」
説得のチャンスなど,万に一つもありそうになかった。だが……。
「恐山と言えば,大間の近くですか。そういえば,マグロの美味しい季節ですなぁ。」
なんとも太っ腹で,人間味あふれる裁判官であった。
そして,相手方代理人は,負けず劣らずグルメな人であった。
八戸から恐山へと向かう車中,私の胸は高鳴っていった。
これほど予想のつかない,そして,日本の裁判史上前例のない証人尋問に取り組むことは,弁護士として,ある種の快楽である。
……などという妄想を抱きながら,先日,日本三大霊山・恐山への一泊旅行を楽しんで参りました。
大間のマグロも,大変おいしゅうございました。
弁護士というのは因果な職業でして,依頼者の皆様が様々なトラブルや不幸に見舞われることで仕事が生まれています。世の中で「医者と弁護士には関わらないのが幸せ」などと言われてしまうのも,無理からぬところです。
何しろ,おめでたいことや幸せな状況では「事件」になりません。
私はよく,
「弁護士の仕事に『離婚事件』はあっても『結婚事件』は無いですからねぇ。ははは。」
などと笑っております。
もっとも,これはあくまでも冗談であって,本当は正しくありません。
確かに,トラブルが起きれば,そこに弁護士の仕事(法律問題や事件)が生まれます。
しかし,実はトラブルが起きる前にこそ,弁護士の本当の価値があるのです。
トラブルを未然に回避・防止することができる弁護士こそ,真に実力のある弁護士です。
依頼者側となる可能性のある企業でも個人でも,弁護士の助言を早期かつ適切に取り入れることで,賢いリスク管理が可能になります。
そのためには,「かかりつけの医者」と同様に,「かかりつけの弁護士」との継続的で緊密な関係性が必要になってきます。
そこで有用なのが顧問契約です。
企業規模の大小を問わず,果敢に経営戦略に取り組む会社であるほど,多角的戦術がもたらす多面的で新しいリスクに,常にさらされ続けることになります。
であればこそ,特に変動の激しいこれからの時代の成長企業にとっては,かかりつけの弁護士との顧問契約が,効果的な「保険」(セーフティーネット)の役割を果たすようになっていきます。
個人のお客様が弁護士との顧問契約を結ぶケースはまだ多くありませんが,代わりに今後は,生命保険や医療保険と同様,個人の弁護士保険がスタンダード化していくことでしょう。個人事業主や専門職等の個人を対象とした新しい顧問弁護士契約のスタイルが広がる可能性もあります。
ちなみに,「結婚事件が無い」というのも,本当は正しくありません。
他の弁護士に聞いたら誰もが「結婚事件なんて知らん」と言うでしょうが,少なくとも私は,過去に「結婚事件」と呼べるようなご相談を何度か経験しています。
民法第755条には,婚姻届出前にのみ可能な「夫婦財産契約」という特別な制度があるのです。結婚前にできるほとんど唯一のトラブル予防法なのですが,日本では極めて実例が少ないのが現実です。
資産を有する方がこれから結婚しようという場合には,必ず事前にご相談ください。
ん? だとすると,結婚もやっぱり「発生前のトラブル」の一種なのではないだろうか……。
マジカルナンバー7(マジックナンバー7)という話を聞いたことがあるでしょうか。
人間が複数の対象を同時に短期(短時間)記憶するのは,7個(プラスマイナス2個)が限界だという趣旨の学説のことです。要するに,人が何かの絵や記号や数字をぱっと見せられたとき,一瞬で覚えられるのは5個~9個までだということです。
この説は,比較的最近まで心理学上の常識扱いされていました。
私が大学で心理学の講義を受けていたときも,マジカルナンバー7についての解説がありました。そのときは割と大きめの教室での授業で,学生が5~60人くらいいたと思います。ひと通りの解説を終えると,教授が「じゃあ,簡単な実験をしてみましょう。皆さん,協力してください。」と言い始めました。
この方法で,教授は,数字を5個覚える場合,7個の場合,9個の場合,11個の場合と続けました。5個では7~8割くらいの学生が挙手し,7個では4~5割くらい,9個では1割くらいの学生が挙手しました。11個になったとき,挙手したのは私1人でした。
教授は,「今年は,一人いたか。」とつぶやきました。
次に教授は,覚えた数字を逆再生するように指示しました。
さっきまでよりも難易度が高くなり,覚えられる(再生できる)数字の数も少なくなるはずです。
すると,5個,7個ではさっきと同じくらいでしたが,9個では2割くらいの学生が挙手しました。11個になったとき,私を含む4~5人くらいが挙手していました。
教授は,「まさか,さっきより増えるとは……」と,首をひねっていました。
実験の難易度が上がったのに学生の正解率が有意に増えたことが,理論的に説明のつかない現象だったからです。
しかし,教授には理解できなかったその現象の原因が,私にはすぐにわかりました。考えられる理由は3つありました。
第1に,「逆再生」という実験のほうが学生にとって面白そうな内容だったから。
第2に,大教室の隅で寝ていた学生の一部が,目を覚まして途中参加したから。
第3に,一番考えられる理由として,最初の実験の11個のときに学生(私)が1人だけ正解したのを見て,プライドの高い一部の学生が競争心を刺激されたから,です。
教授が,マジカルナンバー7という心理学上の学説理論から考えるのではなく,目の前の学生たちの現実の心の動きから考えていれば,それは心理学的にも十分説明のつく結果だったはずです。
現実世界を理論や学問だけで判断するのはやめようと思った瞬間でした。
訴訟でも,学者や医師,研究者などの専門家が証人になることがあります。証拠物の鑑定をした鑑定人を尋問する場面などが典型的です。
専門家の証言なので,さすがに理論的には正しいことがほとんどです。
しかし,結果は間違っていることがある。あるいは,鑑定人によって結論が分かれてしまうこともある。
間違いの起こる最大の理由は,理論のあてはめに終始して,現実世界での大局的な判断をしていないことです。
ちなみに,最近の研究では,マジカルナンバー7は間違いで,マジカルナンバー4プラスマイナス1(3~5)が正しいとも言われています。
科学は絶対ではないし,日々進歩(変化)もするのです。
専門家証人が間違えるもう一つの理由は,これです。
弁護士会で法教育活動に携わっていると,定期的に学校を訪問して学生や子どもたちと触れ合ったり,学校教員の方々とお話ししたりする機会があります。
特に,埼玉弁護士会の法教育の特徴として,小学校での授業や小学生を対象としたイベントが多く,子どもたちと一緒に教室で給食を食べたり,昼休みに校庭で警ドロ(鬼ごっこ)やサッカーをしたりすることは何よりの楽しみです。
小学校に行くと,自分がランドセルを背負っていた頃と比べて,いろいろとおもしろいのですが,特に変わったことのひとつが「英語教育」です。
私自身も,最近は国際人権問題に積極的に関わるようになり,国連の委員会への出席を求められたり,英文の資料に目を通したりすることが増えて,英語力の必要性を痛切に感じています。
確かに,自分自身を含め,日本人の英語音痴は自虐的なほどネタになります。
中学・高校と6年間も英語を学び,英検やTOEICなどの検定試験を何度も受験,大学でも英語科目を履修し,就職してからも自費で英会話学校に通い続け,それでも何故か英語ができない日本人。悲しくもなります。
そのため,教育問題を語る人の多くが,幼少時からの英語教育の重要性を声高に叫び,ついには小学校にも英語の授業が浸透し始めたわけです。
そうして小学校での英語教育が始まって,しばらく経ちます。
どこの小学校に行っても,教室や廊下には,英語のあいさつや英単語の書かれた紙が貼ってあります。英語の授業も週に1,2回は行われているようです。
けれども,そうした小学校での英語の取り組みを通じて,今の小学生が英語を話せるようになったり,英語が得意になったりするという話は一向に聞きません。
当たり前です。
そもそも,中学・高校の6年間の授業でちっとも英語が得意にならなかったのに,同じことを小学校から続けていればきっと英語が得意になるだろう,などと本気で考えるほうがどうかしているのです。
最初から考え方を間違っているとしか,言いようがありません。
実は,司法試験や法曹の世界でも,小学校での英語教育と同じような現象が起こっています。それが,法科大学院(ロースクール)です。
ロースクールができる前,法学部では,大学教授の多くが,大教室で後ろの席には届かないような小声で自分の教科書をただ読み上げているだけ,あるいは,熱心ではあっても実務とまったく関係のない分野で実務ではまったく通用しない外国の学説の紹介に明け暮れるという,くだらない講義をしていました。
そのため,司法試験を受ける学生たちは,仕方なく大学の授業ではなく予備校で法律を勉強する必要がありました。
すると,なんと当の大学教授たちが予備校批判を始めました。予備校は暗記中心で,法的に考える力がつかないというのです。
その結果,無意味な法学部をそのまま残したうえ,屋上屋を重ねるロースクールがたくさん作られ,同じ法学部の教授たちが,以前と同じような授業をロースクールでも繰り返すようになりました。
彼らによると,法学部で4年間教えて法律を身につけられなかった学生でも,あと2,3年ロースクールで教えれば,本当の法的思考力が身につくのだそうです。
なるほど。
これって,中学・高校の6年間では足りなかった英語学習も,小学校から同じようにやっていればきっと話せるようになるだろうという考え方と同じですね。
さすが,教育行政に携わる役人や学者の考え方は,いつも首尾一貫していて立派です。
もっとも,ロースクールの場合,法学部以外(他学部)を卒業した学生でも,同じように2,3年で法的思考力が身につくというお約束になっています。
ん? そうすると法学部の4年間はどこにいった?
あけましておめでとうございます。
昨年末,国連の障害者権利委員会委員長であるマリア・ソリダド・システルナス・レイズ女史と直接お話しする機会がありました。
障害者権利委員会とは,「障害者の権利に関する条約」によって設置された国連の機関であり,世界各地の締約国政府から提出される報告書を検討して,各国への勧告などを行います。マリアさんは,ご自身が盲目のハンデをお持ちですが,2013年4月から同委員会の委員長として,この分野で精力的かつ国際的に活躍されています。
なお,日本は,同条約について2014年1月20日に批准し,同年2月19日から国内で効力が発生しています。
当日は,来日中のマリアさんとの意見交換会が日弁連にて開催されたため,私も国際人権問題委員会の担当委員として参加しました。
他の参加者は,日弁連の中でも自他ともに認める障がい問題の専門家である各弁護士と日本障害フォーラムからの代表出席の皆さんであり,正直言って,委員になって日の浅い私が国際人権問題委員会の代表となるのは気が引けたのですが,そこは「大人の事情」でお引き受けした次第です。
マリアさんのお話は,障がい者問題について常に原則論から展開されており,日本における従来的な障がい者支援のあり方に対しても,大きな発想の転換を求められる内容でした。
特に,これまで「障がい者に対する代理や本人名義の行動は,障がい者にとって便益である」と考えられてきたことについて,国際的には本条約成立以前の古い考え方であり,誤りであると明言されていたのが印象的でした。
すなわち,従来の考え方では,家族,医療関係者や法律の専門家らが,障がい者本人のためと称しつつも,実際には当の本人の気持ちを横に置いて,おそらく一般人の多数が利益だと感じるであろう内容で,(悪く言えば勝手に)代理行為をするのが普通でした。
しかし,障がい者のための制度であると言う以上は,たとえわずかでも残された本人の意思と能力を最大限に尊重し,あくまで本人の趣味・嗜好に基づく利益が何であるかを探る必要があります。本人の意思決定が,他人や一般人からみたら不合理に感じられるとしても,だからといって無視するのでは,障がい者の権利を保護したことになりません。私たちはみんな,他人から見れば不合理なことをたくさんしているのです。
この観点からすると,包括的な代理権を付与する日本の成年後見制度は,根本的な改革を迫られます。代理ではなく,意思決定と意思表明を各人に必要な範囲で支援できる制度を作っていく必要がありそうです。
もっとも,遷延性意識障害(いわゆる植物状態)の方のように,どうやっても自分では意思決定・意思表明しようがない人に対しては,やはり代理の形式を認めざるを得ないのではないかという疑問があります。
また,例えば,死刑判決を受けた被告人が自らの精神障害によって上訴や再審請求を取り下げてしまう場合など,手続の重大性に応じて,刑事弁護人などの一定の専門家に独自かつ固有の権利を認める必要がある場面もあるでしょう。
こうした例外的事情については,国連においても,まだこれから議論が尽くされていくべき問題であるとのことでした。
ちなみに,会議で私からマリアさんに対しては,日本の「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(いわゆる医療観察法)についての質問をしています。
でもまぁ,そんな難しい話より,会議後にマリアさんと少しだけ2人でお話をすることができたのですが,とにかくとっても優しくて,すごくキュートな方だったのです。名刺に点字を入れていなかったことを,ちょっと後悔。
人間(特に男は),たとえ会議で寝てても,そういうところでは「頑張るぞ」とか思っちゃうわけです。
それもまた,別の意味で「大人の事情」ってやつでして。
そんな感じで,今年もよろしくお願いいたします。
この世の中,全く嘘をつかずに生きている人なんて,いないと思います。みんな,何かを抱えながら生きています。
でも,大事な場面の大切なことで他人を傷つけるような「嘘をつく人」って,本当に嫌ですよね。
弁護士という職業では,残念ながら「嘘をつく人」と接する機会が,普通の人よりも多いと思います。交渉や反対尋問などでは,相手の巧妙な嘘を見破らなければならない場面があるし,そのための技術を磨く努力もしています。
それでも,どうしても見抜けないこともあれば,たとえ見抜けたとしても,やむを得ず気付かないふりをしなければならない場面もあります。
けれども,何といっても一番悔しいのは,嘘だと分かっているのに証拠がなくて嘘を証明できない場合です。
では,刑事裁判の証言席でもっとも多くの嘘をつく証人は,どういう人たちだと思いますか?
それは,圧倒的に「警察官」です。
ある程度の専門性をもって刑事弁護に取り組む弁護士であれば,この結論にあまり異論は出ないと思います。
刑事裁判において,警察官ほど,組織的かつ平然と大きな嘘をつく人たちはいません。
彼らにとって,犯罪行為をしたに違いない被告人を重く処罰することは無条件に正義であり,警察組織を防衛し,被告人を有罪にするための虚偽供述は,正義にかなうのかもしれません。
正義感でやっているならまだ救われますが,実際の印象では,正義感というより単に上司の方針と顔色に従っているだけ,というのが本音のようです。これを見抜けず,あるいは,知っていて積極的に利用する検察官もいます。
その一方で,警察官の「嘘」を立証するための証拠は,すべて警察と検察が持っているのですから,やりきれません。
取り調べの全面的な可視化をすれば,警察官の嘘の3分の2くらいが暴かれる(不可能になる)わけですが,だからこそ彼らは必死で反対しているんでしょうね。
裁判で,証人は嘘をつかないという宣誓をしてから証言します。
どうせなら,警察官には「指切りげんまん」してもらったらいいんじゃないでしょうか。
指切りげんまんの「げんまん」は「拳万」と書き,拳骨で1万回タコ殴りにするという意味。「嘘ついたら針千本飲~ます!」は,縫い針千本を飲ませる刑に処するということ。
それ以前に,指切りは本当に指を切って約束することなのです。
なんでも,昔の遊女が自分の小指を切って思い人に送った習慣が起源だとか。
子どもが歌に合わせて小指を絡めてぱっと放すあれは,「小指を切る」動作から来ているのです。
ヤクザが小指を詰めるのも起源は同じようですね。
でも,宣誓を指切りげんまんにしたら,証人はみんな小指がなくなっちゃう?
いいえ。
実は,昔も,男女が互いに送り合うための「偽物の指」が売られていたんだそうです。今なら大層精巧に作れることでしょう。
あ,それじゃ宣誓と同じか……。
何でも「わかりやすい」ことを要求されるのが最近の傾向です。
いわゆる二項対立構造の問題点を指して「分かりやすさの罠」などと呼ぶ場合もあって,それはそれで大問題なのですが,ここで言う「わかりやすさ」は,もっと単純に,説明や話し方が明快で,漫画的で,あっさりしていることです。
テレビ番組や雑誌はもちろんのこと,かなり専門分野の書籍でも,図や色彩や文字の大きさから,パッと見てわかりやすそうに感じられないと売れないそうです。
わかりやすいのは一見すると良いことなのですが,かみ砕くほど中身は薄くなり,厳密さを失って,細部は不正確になります。
わかりやすいがゆえに,不十分・不正確な理解のまま,なんとなくわかった気になることの怖さもあるのです。
もっと悪いことに,人は「わかりやすさ」を良しとするあまり,「わかりにくさ」を憎むようになります。
しかも,わからない自分ではなく,わかりにくい相手を。
裁判員裁判でも,裁判員にとって「わかりやすい」ことばかりが強調され,証拠の厳密さや説明の細かさが憎まれる傾向があります。
「みのもんたみたいに(TVのワイドショーのように),もっと簡単に説明できないのか」などとおっしゃる人も,時々ですが,いらっしゃいます。
わかりにくいことが忌み嫌われる結果,わかりにくいと思われた側に不利な心証をもたれてしまうこともあり得ます。
(したがって,裁判員裁判での刑事弁護や被害者参加を依頼する際は,必ず裁判員裁判の経験を積んだ弁護士に依頼するべきです。)
ただ,この傾向は裁判員の方々よりも,どちらかというと裁判官のほうに強いようなのです。
もともと法律の素人である裁判員の方々にとっては,わかりにくいことはある意味で当たり前です。ほとんどの方は,たとえ少し難しく思えても,頑張って理解しようと懸命な努力をされています。
ところが,裁判官は違います。自分たちは法律をわかっていますし,刑事裁判の手続にも慣れていますから,裁判員の方々の理解が自分たちになかなか追いついてこない場合,そのフォローのために時間を奪われ,気を遣い,評議の進行に大変な苦労をすることになります。
その恨みが,(裁判員にとって)わかりにくい(であろう)話し方をした検察官や弁護士に向かいがちになるです。
裁判員裁判を傍聴していて,裁判長が,検察官や弁護人に対して進行についての文句を言う場面は,ほとんどそれです。
やれ「予定時間を過ぎている」だとか,やれ「質問を絞って短くしろ」だとか。
裁判員の方々は,裁判長が一体何に怒っているのかすら分からず,キョトンとしています。
わかりやすさを追求した結果,表面的な理解と薄っぺらな議論ばかりが喜ばれるような社会には,ならないでほしいと思います。
このところ埼玉県警が,県内の色々な場所で,ひたすら同じ公衆放送を繰り返しています。
「『電話番号が変わった』,『風邪をひいて声が変わった』という電話は,…詐欺です!!」
いや,いや,いや,いや…。
それ,誰でも普通に言うから。詐欺とは限らないから。私も,このまえ言ったから。でもって,何でも詐欺だとか思われてすぐ電話を切られちゃって,下手すると速攻で着信拒否とかされちゃって,ものすごく困るから。やめてください。
断言の仕方が,ちょっと極端すぎでしょう。
(これも「わかりやすさの落とし穴」の一例ですね。)
さて,こうしたオレオレ詐欺・振り込め詐欺(今は,架空請求や必勝法詐欺なども総称して,「特殊詐欺」と呼ぶようになりました)の流行のせいで,弁護士の仕事が詐欺と間違われやすい場面も出てきています。
そのひとつが,当番弁護士として被疑者・被告人の親族に電話連絡をした際の会話です。
私は,近いうちに必ず「当番弁護士詐欺」が出現するだろうと思っています。
たとえば,ある日突然,皆さんの携帯電話に弁護士を名乗る見ず知らずの男から,こんな電話がかかってきたらどうしますか?
「私は,日弁連の当番弁護士です。息子さん(お孫さん,ご主人,etc.)が暴行容疑で警察に緊急逮捕されたため,私が先ほど裁判所の許可を受けて面会してきました。
息子さんが私選弁護士をつけたいと言っています。今すぐに弁護活動を開始しないと,えん罪で刑務所に入れられてしまいます。
弁護士報酬は,……円で,振込先は……です。急いで入金してください。」
この電話がかかってきた日に限って,たまたまその人の帰宅が普段より遅かったりしたら,さすがに焦りませんか?
もちろん,本物の当番弁護士なら(少なくとも私なら),こんな不作法な話し方はしません。きちんと名前と身分を名乗り,ご連絡することになった経緯について,もっとわかりやすく説明します。
まして,いきなり弁護士費用の話なんかしませんし,会うこともなくお金だけ振り込ませることもしません。
それどころか実は,上に挙げた例はわざと間違いだらけにしてあって,弁護士が聞けば一発で嘘(詐欺)だとわかる内容です。
しかし,普通の人なら,だまされてしまう危険が十分にあるでしょう。
では,当番弁護士詐欺を見破れるのかどうか,実際に試してみましょう。
上に挙げた例の中には,おかしなところが6個あります。
3つ見破れば合格です。全部わかった方は,かなりの「通」ですね~。
答え合わせは下の方でどうぞ。
ちなみに,本物の弁護士だって,ちょっと言い間違えたり,時間が無くて焦っていたりすることは結構ありますから,そういうとき,あんまりいじめないでくださいね。
なお,当番弁護士についての詳しい情報は,「【Q&A】当番弁護士とは?」を是非ご一読ください。
※以下,答え合わせです。
間違い1)「日弁連の当番弁護士」
当番弁護士は,各地の弁護士会で運用しています。「埼玉弁護士会の当番弁護士」とは言いますが,「日弁連の…」とは,まず言いません。(ただし,日弁連もお金は出しています。)
間違い2)「暴行容疑で警察に緊急逮捕」
法律上,暴行罪では緊急逮捕できません。
間違い3)「裁判所の許可を受けて面会」
弁護士の面会(接見)に裁判所の許可は不要です。
間違い4)「私選弁護士をつけたい」
「私選弁護士」ではなく,「私選弁護人」と言います。言い間違えることはあっても,間違えたまま(正しい言葉を知らない)ということはあり得ません。
間違い5)「えん罪で刑務所に」
逮捕されたばかりで,裁判も受けずに刑務所に入ることはありません。まずは「勾留」の説明が先でしょう。
間違い6)「弁護士報酬は」
最初にかかる弁護士費用は「着手金」や「実費」です。「報酬」は事件の終了時にかかるものですから,最初に「弁護士報酬」を振り込めというのは,ちょっと変です。
川崎の少年事件等で,また加害者少年の実名報道や写真掲載が話題になっています。
念のため確認しておきますが,実名報道は少年法違反,つまり違法行為です。
ただし,違反に対する罰則はありません。
(記事等の掲載の禁止)
第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については,氏名,年齢,職業,住居,容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。
法律論としては,少年法の趣旨だとか,表現の自由や児童の権利に関する条約との関係など,様々な角度から論じられている難しい問題です。
けれども,これって,もっとシンプルな問題だろうと思うんです。
法律を横に置いて考えると,現在の素朴な市民感情における多数派は,実名報道に賛成でしょう。
そりゃそうです。だって,法律で禁止されていて誰も知ることができないはずの犯人の顔写真や名前やプライバシーが,ある特定の雑誌やネット情報でだけ見られると分かったら,誰だって見たくなりますよ。
私だって,ついリンクをクリッ……。
いや,それはともかく,要するにその感情は,どんなに良く言ってもただの「好奇心」。悪く(率直に)言えば,出歯亀的な「覗き見根性」か,せいぜい野次馬根性なんです。
要はこれ,ポルノと同じなんです。隠されているはずのものを見られる快感なんです。
すごく汚らしいけど,人としてやむを得ない感情でもある。
それだけのことだし,だからこそ,嫌でも否定しきれません。
これに対して,正義感を振りかざして実名報道を積極的に肯定しようとする人たちが,結構たくさんいます。
しかし,その理屈はどれも空々しくて,はっきり言って気味が悪い。
たとえば,
「加害者が,実名報道されている被害者よりも守られるのはおかしい」
とか,
「加害者は,(少年でも大人でも)名前をさらされて罰を受けるべき」
とか……。
一見すると共感を呼びそうな話だけど,実はまったく筋が通っていません。
それに気付かない人が多いということも,すごく怖い。
事件が起こるたびに,被害者や家族の気持ちなんて一切考えずに,当然のように被害者の実名や写真を無許可で流しまくり,生い立ちやプライバシーを根掘り葉掘りあばいて楽しんでいるのは,一体誰でしょうか?
事件の加害者じゃなくて,マスコミじゃありませんか。
そんな「報道」を喜んで見ているのは,一体誰でしょうか?
事件の加害者じゃなくて,私たちじゃありませんか。
自分たちが先に被害者を散々苦しめておいて,だから加害者も苦しめと,勝手なことを言っているだけじゃないでしょうか。
加害者の顔を見て,実名を知って,そのうえで謝罪を求めたり,損害賠償請求をしたりすること。それは,間違いなく被害者の権利です。
しかし,私たち(第三者)の権利ではありません。
私たちにも,社会防衛のために事件や加害者を自由に批判する権利があります。
しかし,直接被害を受けたわけでもないのに謝罪を求めたり,損害賠償を請求したり,ましてや加害者を私的に処罰する権利などありません。
実名も顔写真も,自分とは関係ないはずなんです。
多くの人が,無関係の自分に加害者を罰する権利があると思い込むようになったら,きっと恐ろしい社会になるでしょう。
知りたい,見たいという確かな欲望がある。その欲望は金になる。営利企業であるマスコミが人々の欲望に応えれば,視聴率を集め,部数が伸び,広告費が入る。そこには経済的合理性がある。
下衆(ゲス)でもいいから見たいもんは見たい。金になるからやる。
それならすごく正直で,もしかしたら,それを正しいと言えてしまうのがこの資本主義社会なのかもしれない。まさに「鬼畜の所行」。
しかし,その欲望に忠実に従った結果の実名報道は,決して,
被害者のためではないし,
加害者に対して許された社会的制裁ではないし,
本当は表現の自由でも,知る権利でも,報道の使命でもない。
そういう言い方で欲望を正当化されると,自分を差し置いて「下衆の極み」とかって叫びたくなります。ハマカーンみたく。
資本主義社会は,欲望で発展し,欲望で暴走します。
だから,欲望を抑えるためのルール(法と道徳)を必要とするのです。
たとえば,無修正のポルノを法規制するように。
でも,無修正ポルノは誰も傷つけないけど,実名報道は必ず誰かを傷つけますよ。
だとしたら,規制されるべきなのは,どっちでしょうね。
私は,どちらもやっぱり見たいと思ってしまうけど,大人なので自制します。
先日,休日の早朝6時過ぎから,とある住宅街の交通事故現場で,交通量調査やら写真撮影やら,一人であれこれやりました。
休みなのに,何しろ朝が早くて。
で,すっごく寒くて。あと,雨も降ってまして。
そのうえ,犬の散歩中のおばあさんとかに,めっちゃ不審がられまして……。
以前,公式ブログのほうで現場主義について書いたことがあります。(「HEROは,検事か弁護士か?」→このリンクは,浦和法律事務所公式ブログに飛びます。)
要は,受任した事件の現場になるべく足を運んで,紙の上の文字や写真では分かりにくい細かな状況をしっかり確認するということです。
現場主義はとても役立つのですが,一方で,とにかく時間を取られるのが難点です。体は一つですから,限られた事件でしか実行できません。手間も費用もかかります。
それも,ただ現場に行けばいいだけであれば,まだ楽な方です。事件や事故が起こったのとなるべく同じ条件で現場確認をしようとすると,早朝や深夜に無理矢理にでも時間を作って,遠方の現場まで出かけていくこともあるわけです。
というのも,現場主義が最も活きてくる三大事件は「交通事故・不動産・(否認の)刑事弁護」なのですが,中でも交通事故関係の事件は,できる限り事故発生時と「同じ条件」の現場を確認することが重要になります。
事件や事故の起きた時間帯や曜日,天候や季節などによって,事故の発生条件や結果との因果関係が大きく変わるからです。
平日と祝日の違いだけでも,交通量の差によって結論の違いを生じ得るのです。
もちろん,事件処理の経験を積んでいくと,書面上でじっくり考えるだけでも,色々なことに気付くようになります。
しかし,やはり実際に行かないと本当のところは分かりませんし,思い込みや間違いを発見できないことも出てきます。
たとえば,報告書の写真では夜でもやや明るく見えているが,実際の同じ条件の現場は非常に暗かったことを争う事件。
書面だけ見て,可能性としてすぐに考えるのは,
(故意か過失かはともかくとして)カメラの露出オーバーではないか,
事故日は曇天だったのに,写真を撮った日が晴れて満月だったのではないか,
日時の経過による日没時刻のずれが,きちんと補正されていないのではないか,
とかですね。
実際には,事故当時は街路灯を覆い隠していた木の葉が,写真撮影時までに枝打ちされて全部落ちてしまっていたから,でした。
証拠写真からは枝打ちされた痕跡を確認できなくても,現場に行けば分かります。
高額の費用をかければ,専門の調査会社や代行業者を使って,十分な時間をかけた現場調査により様々な資料を収集することもできます。
証拠集め目的なら,むしろその方がはるかに望ましいでしょう。力量に個々の差はあれど,弁護士のできる証拠収集には限界があるからです。
けれども,ここで言う現場主義の最大の利点は,弁護士自身が現場に習熟することにあります。弁護士が自己の現場体験に基づいて主張や尋問を行うからこそ,言葉が力を持つのです。
だから,行くべき時には,行くしかないのです。
……そんなふうに自分自身を鼓舞し,半泣きになりながらも,やっとの思いで布団から這い出た真冬のある朝なのでした。
最近,DNA鑑定に関する事件や専門的研究を取り扱うことが増えています。
ひとつには,私が常に離婚などの男女関係の事件を多数抱えているため,父親と子どもの父子関係を争う事案を扱うことが多いからです。
しかも,以前は高額の費用がかかるために敬遠されがちだったDNA鑑定が,今ではかなり安くなり,民間に普及してきました。適切に行われた鑑定であれば,結果の信頼性も証拠としての価値も,非常に高いと言えます。
その分,離婚を争う両親が安易に子のDNA鑑定に走ろうとする傾向のあることは,やや気になります。子どもが幼いうちはまだ良いのですが,やっていることの意味や目的を理解できる年齢に達した子どもについて行うDNA鑑定は,その結果にかかわらず,子どもの心を大きく傷つけてしまう危険があります。
もちろん,たとえ実子でなくとも,育ての親と子の間に真実の愛情は成立するでしょう。父子間のDNA鑑定を行うことと,その父子の愛情の度合いは,論理的には,まったく別問題です。
しかし,その論理を子どもが理解して受け止められるかどうか,感情的には,やはり別問題なのです。
やむを得ずDNA鑑定を行う場合でも,子どもの心情に対する十二分の配慮が必要です。
こうした家事事件・民事事件に先立って,刑事事件についてDNA鑑定が問題となる場面が激増しました。
強姦事件で精液のDNAから犯人を特定したり,逆に,殺人の凶器に付着していた微量の血痕をDNA再鑑定したことで被告人の無罪が明らかになったりします。
技術の進歩により,採取された試料が極わずかでも鑑定可能な場合が増えました。そして,DNA鑑定に対する科学的信頼から,有罪・無罪の結論に決定的な影響を与える証拠とされることも多くなりました。
しかし,こうしたDNA鑑定には,見落としがちな大問題がいくつもあるのです。
中でも,民事事件・刑事事件に共通する最大の問題は,鑑定の際に用いられる試料(鑑定の対象物)が適切に採取・保管されたものか否かがわからない,ということです。
しかも,1回の鑑定で,大切な試料を警察が全部使い切ってしまい残りがない場合(「全量消費」),弁護側では確認のための再鑑定もできなくなります。
たとえば,父の髪の毛と子の髪の毛のDNAが100%一致しないという鑑定結果が出ていて,かつ,その鑑定方法や鑑定結果が科学的に100%正しくても,血縁上の父子関係が否定できない場合もあります。
なぜなら,その鑑定に使われた髪の毛が,その父子本人の髪の毛ではないことがあるからです。
つまり,鑑定に使われた髪の毛は確かにその父子の髪の毛だったという証明が必要です。
そしてその証明は,科学的な正確さの問題ではなく,試料(鑑定対象物)の採取と保管という極めて人間的な手作業の公正さの問題なのです。
人間の手作業である以上,単純な取り違えミスもあるし,人為的なすり替えや加工(証拠のねつ造)もあり得ます。そのような過程を裁判官が「科学的に信頼する」ことは,そもそも間違いなのです。
このような鑑定に関する様々な問題点について,今,法務研究財団の研究員として調査活動中です。
結果をご報告できるのは少し先のことになりそうですが,難しいながらも面白い研究になってきています。
でも,さすがに真面目な最終報告書に「DNAで愛は測れない」とかいう一章を書くわけには,いかないでしょうね。
泊まりで福岡に出張してきました。
事件は,私がさいたま家庭裁判所から専門職の成年後見人として選任を受けて,被後見人のために貸付金を回収しようとする民事裁判です。
法的に難しい点もなく,勝訴もしくは勝訴的和解による解決の見込みを持っていたのですが,とにかく最低でも一度は福岡地裁まで出向く必要がありました。
忙しかったので飛行機での日帰りも考えましたが,費用がかなり高額になり,和解協議となった場合の裁判の終了時刻が不明だったこともあって,なんとか時間を作って,新幹線とビジネスホテルがセットになった格安旅券を手配し,福岡で一泊することにしました。往復だけで13時間の長旅です。
しかし,これが当たりでした。
新幹線のグリーン車は電源が自由に使えて作業スペースも取れるので,行き帰りともにノートPCで書面作成に集中でき,仕事が非常にはかどりました。
夜は夜で,何も無いビジネスホテルですから,仕事しかすることがありません。
中洲などという楽しげな場所のことなど,私はこれまで見たことも聞いたこともありませんから,「ホテルから歩いてすぐ中洲じゃん」とか知っていたからといって,夜にふらふらと出歩いて遊び歩くなどということは決してありませんでしたし,ましてその晩にお酒など一滴たりとも飲んだはずがなく,ひたすら夜中まで仕事に没頭していたに違いないと思うわけですが,人の記憶は意外と不確かなものだという見方も無いとは言えません。
もちろん,福岡と言えば「豚骨ラーメン」と「もつ鍋」でしょう,なんてことを全く思いつきもしませんでしたので,ここで写真を載せて嬉しげにご報告するようなことも特にないのですが,私のスマホに不思議なデータが残っていましたので,よく分かりませんが何となく貼り付けておきます。
ともかく,予想どおり費用もかなり節約できましたし,時間も無駄にならず,裁判でも無事に和解が成立しました。
一幸舎,うまかったなぁぁぁ。
現在,交通事故事件を同時に何件か抱えています。
これは交通事故に限ったことではないのですが,同じ種類の事件をいくつも抱えていると,同時並行で,まったく逆の立場で仕事をすることもあります。
先日,同じ日の午前と午後に,続けて交通事故の被害者側と加害者側の双方の立場で裁判をしたことがありました。
いずれも,交通事故で被害者が死亡している過失運転致死等事件の刑事裁判で,被告人質問や求刑などを行う一番大事な審理期日でした。
一件は,加害者(被告人)の弁護人という立場での裁判。
法廷で,被告人と弁護人(私)の席の向かい側,検察官席の横には,被害者参加したご遺族と被害者代理人が座っておられました。
もう一件では,私が被害者のご遺族の代理人として,ご遺族と一緒に法廷に座りました。
弁護士として異なる立場を代理することは日常の景色ですが,真逆の法廷が同日に重なるのは,さすがに多少の奇縁と言えます。
交通事故の死亡事案は,人の命に直接かかわる事件の代表格のひとつです。
ご遺族の感情は,もはや言葉では言い表せないものがあります。
飲酒や無免許などの特に危険な運転行為であった場合はもちろんのこと,通常の過失運転でも,無保険車の場合とひき逃げの場合は,被害感情が段違いに高まります。これらの問題は,運転者において,いくらでも防ぐことができたはずだからです。
一方で,加害者もまた,人を殺してしまったという重荷を背負い,生涯,悩み苦しむことになります。
酷い運転者や反省のない犯人もいるにはいますが,多くの加害者は,自らもまた深い闇を抱え込みます。
それが交通事故事件である限り,誰かを傷つけようと思って事故を起こした人は,一人もいないのです。(車を凶器としてわざと人を殺した場合,交通事故事件ではなくなり,刑法の殺人罪などが適用されます。たとえば,秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで無差別に人を殺傷した事件では,殺人罪と殺人未遂罪が適用されています。)
誰であれ運転をする以上,思いがけず加害者となる可能性を強く心にとめておくべきです。
ただ,自分で運転をしなければそれでいいのかというと,そうではなく,人に運転させる場合には,運行供用者という立場での重い責任が発生することがあります。
タクシーに乗る場合とかは別として,誰かに運転をさせる,してもらう場合も,しっかりとした責任感を持ちたいですね。
とはいえ,実は,タクシーの事故率は一般車よりも何倍も高いという大問題がありまして……。
現代社会で生きていく以上,交通事故の脅威からは誰も逃げられないようです。
弁護士の相談料の相場は30分5,000円(+消費税)からで,私の場合も基本的には同様です。
これを,「ただ話すだけなのに高すぎる」と感じる人もいて,それはそれで別におかしくはありません。価値観の問題です。
ただ,問題を抱えた際に専門家のアドバイスを得る機会が遅れると,結果的にトラブルは大きくなりがちで,解決も困難になって長引き,かえって費用も嵩む場合があります。
ギリギリまで相談を迷ったり後回しにしたりしていて,どうしようもなくなってから,「相談」ではなく「依頼」をしたいんだと駆け込んでくる方が,実に多くおられます。
弁護士の相談料とよく比較されるのは,医師の診察料ですね。
しかし,医師には国民皆保険制度があるので,そのまま料金を比較することはできません。
しかも,初診料や薬の処方などの諸費用が伴うのが普通で,診察だけで終わることもほとんどありません。それに,診察は診察だけであって,治療しなければ病気は治りません。
でも,弁護士の法律相談は,相談料だけで解決・終了するケースが,かなりあります。
というわけで,相談の料金に関しては,医師の診察と比較するのは正しくないと思います。
ほかの弁護士が誰も本当のことを言わないので,私がはっきり言いましょう。
弁護士の相談料は,「占い師の見料(相談料)」と比較したらいいんです。
だって,お客様が自分の抱えた問題やトラブルについて,赤の他人にお金を払って解決のヒントとなるアドバイスを聞こうとするのですから,近いというより,ほとんど同じものでしょう。
でもって,どっちかと言えば,法律相談のほうがちょっぴり実用的で,むしろ安いと思うんです。
それで,私はよく冗談交じりで,こんな話をしちゃいます。
「私が占い師だった頃,見料は今と同じ30分5,000円,弟は家庭教師で2時間5,000円でした。母は漫才師で5分で5万円,父はペテン師で3分100万円でした。」
「……」
「わかるかなぁ,わかんねぇだろうなぁ(笑)」
「……ははは(わかんないんですけど?)」
これ,松鶴家千とせを知らないと全然笑ってもらえないわけですが,ともかく,相談料については医師じゃなくて占い師と比べてもらったらいいと思います。
大企業の社長やトップ政治家など,重大な決断を迫られるポストにいる方々には,占いを人生の指針の一つとしている人が多くおられます。
ただ,あまり他人には言いませんね。変に誤解されることがありますから。
優れた占い師による占いというのは,言わば天から降ってくるアイデアのようなものです。
現実社会にまみれた自分の過去の経験や感情からは決して生み出されない発想で,物事の別の一面を象徴的に切り取ってくれます。それを自分なりに柔らかい頭で解釈し,自分の抱えた問題に対する新しい解決の視点を探るのです。
あるいは,既に半ば心を決めた重大な決断について,背中を押してもらうためのスイッチにする人もいます。
いずれにしても,成功者の方々が占いを積極的に利用するのは,占いを「信じている」からではありません。それが自分にとってどう役に立つかをわかっていて,アドバイスの上手な使い方を心得ているのです。
これは,弁護士の法律相談でも,究極的には同じなんです。
弁護士による法的アドバイスを受けても,それを上手に使える方と使えない方がいます。
専門家によるアドバイスの大切さを理解できる方にとって,法律相談は決して高くはないはずです。なにしろ,「ただ話すだけ」で問題を解決してしまうことすら,あるんですから。
力のある経営者の方が,わざわざ相性の良い弁護士を探してまで顧問契約を結ぼうとするのは,良質の相談の機会を優先的に確保するための安い投資だと考えるからです。
ところで,先ほどの「私が占い師だった頃」のお話。実は,私に関してだけは本当です。
小さい頃から,四柱推命,奇門遁甲,紫微斗数,西洋占星学,インド占星学,タロット,カバラ,易占,相術などを学んでいて,司法試験の勉強を始める前には,わずかですが占い師として小銭を稼いだ時期もありました。
その後,何年も頭の中に法律を詰め込んでいたら,占いの知識は驚くほど忘れ去ってしまいました。
でも,今もタロットカードを数十種類もコレクションしたりしています。きっと,燻るものがあるんでしょうね。
占いができると女の子と話が弾むから,とかでは決してございません。
ま,法律より占いのほうが恋愛に役立つのは間違いないんですけど。
あと,こういうのもあります。
「俺が昔,占い師だった頃,弟は陰陽師だった。お袋は霊幻道士で,親父はキョンシーだった。……わかるかなぁ。わかんねェだろうナ。」
台湾なんかでは,歩いていると道端になっているバナナを見かけたりします。
で,こういうのを見ると,よく「バナナの木」と言ってますが,違います。
まず,「バナナの木」なんて,おそらくこの世に存在しません。
実は,バナナは木に見えますけど,あれは「草」です。
木の幹のように見えるところも,葉っぱみたいのが重なり合ってできた「茎」。もっと正確に言うと,本当の茎は地下にあり,幹のように見えるのは「偽茎」と呼ぶそうです。
ちなみに,バナナは草だから,果物ではなく野菜なんじゃないか,という話もあります。
このバナナ,漢名は「芭蕉(ばしょう)」です。そう,松尾芭蕉の芭蕉なんです。
なんで俳人の名前がバナナ(芭蕉)なのかは諸説あるようですが,私たちがイメージするところのバナナにちなんだ,わけではなさそうです。
というのも,芭蕉は,たしかにバナナ(の仲間)のことなのですが,日本で普通に「芭蕉」と言った場合は,私たちが考える果物のバナナとはちょっと違う種類の草(木)を指すのです。
芭蕉は食用バナナよりも寒さに強いので,日本でも探せば割とそこら中で見付けられます。ただ,見た感じが,いわゆる食用バナナの草(木)とそっくりなので,芭蕉のことを知らないと「こんなところにバナナが生えてる!!」と思って結構驚きますね。
食べる方のバナナは,実芭蕉と呼んで区別することが多いみたいです。(芭蕉の実も,どうにかこうにか上手くすると食べられるらしいです。)
では,西遊記に出てくる「芭蕉扇」はご存じですか?
牛魔王の妻である鉄扇公主(羅刹女)が持つ秘宝で,大風を起こして火焔山の燃え盛る炎を消すことができるとされています。この芭蕉扇を巡って,孫悟空とチチ,じゃなかった鉄扇公主や牛魔王が大バトルを繰り広げるのです。
その芭蕉扇も,バナナの葉の形に似ていたのか,バナナの葉から作られていたのか,それとも,高級扇と言えばバナナ(型)でしょ……てなことが当時の常識だったのか分かりませんが,なんにせよバナナなんです。あと,西遊記に,かめはめ波は出てきません。
と,ここまで来てやっと本題ですが,年々,ブログの炎上や名誉毀損的な書き込みの削除など,ネット上でのやり取りの中で生じたトラブルの相談が増えています。
弁護士として一定の法的対応の仕方はありますので,どうにもならなくなる前にご相談ください。着手が早ければ早いほど,良い解決につながります。
もっとも,顔の見えない匿名環境は,自覚の薄いままに,極めて悪質な犯罪者や悪ノリしたネットストーカーを生み出します。時機に遅れた安易な対応は,火に油を注ぐことになりかねない難しさがあります。
ネットは,いわば燃えやすいガソリンの撒かれた山。いつ炎上するか分からないのです。
芭蕉扇のように,ネット上に燃え盛る炎を消してくれる秘宝や特効薬があるといいですよね。
大体,炎上するような書き込みをする人は,カーッとなって周りが見えない状態で,自分の主張をひたすら連投するという精神状態です。自分で自分が見えていません。
書き込みをする前に,芭蕉扇つながりで美味しい台湾バナナでも食べて一息つくように気をつけていれば,それでもう最初から火なんて付かないのです。
だから,バナナは炎上に効くんです。
けどそこ,別にバナナじゃなくてもよくない?
売買や賃貸借契約,離婚や相続など様々な場面で,不動産に関連する契約や事件を数多く扱います。するとその都度,不動産とは一体何なのか,特に「土地」とは一体誰の物なのだろうかと考えてしまいます。
たとえば,あなたが,ある土地を所有しているとします。
その土地は,本当にあなたの物ですか?
あなたが,自分のものであるはずのその土地を自分のために使うに当たっては,実に様々な規制(法的制約)を受けます。
不動産取引の重要事項説明書の標準書式には,宅地建物取引業法施行令第3条1項に定める55個の法令上の制限についてのチェックリストが附属して様々な制限を警告するほか,法令上の規制に関するその他の注意事項が羅列されます。要するに,あなたの土地でやってはいけないことの詳細で膨大なリストが添付されます。
自分で自分の家をデザインする注文住宅が流行で,ちょっと素敵な気もしますが,実際には,自分の家を建てるはずなのに,面積も,高さも,容積も,そのほか色々と自由にならないことばかり。注文を付けられているのはこっちのほうだと言いたくなります。
そもそも,私たちは土地を「平面」として考えがちですが,法的・経済的な意味での土地とは,決して「地面」のことではありません。地面の上と下の空間利用価値のことです。
そしてそれは,あなたがよく知らないうちに,非常に狭い空間に限定されてしまっています。
あなたの土地(家)の上の空を飛行機が飛んでいても,「領空(所有不動産の上空)侵犯だ」などという文句は言えません(騒音や振動は別です)。
今,「ドローン」がちょっとした話題ですが,あなたの土地(家)の上をドローンが飛んでいたとしても,ただ飛んでいるだけであれば,おそらく何も文句は言えないでしょう(盗撮等は別です)。
(ただし,空の法律はかなり曖昧です。航空法等で,飛行機は建物から300メートル以上の高さを飛べといった制限はありますが,明確にあなたの土地所有権が空のどこまで及ぶのか,はっきりしていません。)
あなたの土地の地下に地下鉄が走っても,あなたは文句を言えません。
(こちらは法律が割とはっきりしています。大深度地下の公共的使用に関する特別措置法・同施行令という法律で,原則として地表から40メートルを超えれば公共の利益となる事業に使われてしまうからです。)
まぁ,こういったことは,ある種,当たり前のことではあります。
確かに,空が土地所有者の物なら,宇宙の星や月も土地所有者の私物になりかねません。
地下がすべて土地所有者の物なら,「ブラジルの人」が困るでしょう。
それにしても,土地とはどこまで誰の物なのか,という疑問は残ります。
法的・経済的に言えば,中国などの例を持ち出すまでもなく,資本主義自由経済下のこの日本であっても,土地は究極的に国家の所有物です。「そんな馬鹿な」と思う方は,固定資産税の支払いを何年か止めてみれば,そのうち思い知ることになるでしょう。
つまり,土地は何人も所有できず,一定の範囲で管理できるだけであるとも言えます。
そしてそれは,国家・政府においても,究極の究極において,きっと同じなんです。
根源的な意味で「もともとどこかの国家に所属する(領有される)土地」なんて,どこにもないのです。
もっとも,根源的に人が所有できないのは,なにも土地には限りません。
この世にある全ての物は,おそらく誰にも所有できないのです。
だって,人は裸で産まれて裸で死ぬのです。最初に持っていた物,あなたがあなたであるための唯一否定し得ない所有物であるはずのこの体さえも,死ぬ時には置いていくしかないのですから。
そんなことを考えながらコンビニで買ったサンドイッチを囓っていると,
「でも私は,今,確かにこのパンを所有しているぞ」
とか思ってしまうのでした。
以前のこのブログで,一審の裁判員裁判で有罪となり,東京高等裁判所に控訴していた外国人被告人の強姦致傷事件について少しだけ書きました( 2014年8月31日の法律夜話「私は,無実です。」はこちら )。
一審から振り返ります。
検察官の求刑は懲役10年でした。
被告人・弁護人は無罪を主張し,事件は基本的に被害者女性の作り話であると主張していました。
被害者は,深夜,当日初対面だった一人暮らしの男性被告人の家に上がり,何時間か一緒にいて,お酒もかなり飲んでいました。その後,強姦行為があったというのです。
もちろん,家に無理矢理連れ込まれ,強引にお酒を飲まされたというのが被害者の主張でした。
一審判決はどうなったでしょうか。
普通,全面的に無罪を争った結果として負けてしまう(有罪判決になる)と,判決での量刑は「重く」なる傾向があります。
そもそも,有罪の被告人について判決で量刑が「軽く」なる最大の要因は,被告人が真摯に反省し,被害者に謝罪して可能な限りの被害弁償を行っていることなどにより,被告人の再犯の可能性が減って更生への期待が高まり,被害感情がわずかながらも慰撫されて社会全体の応報感情も低下すると考えられるからです。
しかし,犯罪事実の有無を争って無罪主張をする被告人には,反省の弁を述べる機会はないのが普通です。謝罪や賠償も考えられません。被害者と敵対することも少なくありません。
多くの場合,むしろ自分がえん罪の被害者だと主張することになります。
被告人の無罪主張が判決で認められれば良いのですが,もしも認められず有罪判決となる場合,被告人の刑が軽くなる要素は,かなり少なくなります。
もちろん,刑事事件を専門とする弁護人であれば,無罪主張をしつつも,万が一の場合に備えた情状を上手に織り込んで主張し,有罪判決となっても不利にならないよう周到に準備するでしょう。しかし,いかに経験豊富な刑事弁護人でも,無罪を争いながら行う情状主張には限界があります。
そのため,もし有罪となれば,検察官の求刑どおりか,それに近いような重い判決も覚悟する必要があります。
しかし,この事件の一審判決は,懲役6年でした。
実際には,そのまま判決が確定して服役する場合でも未決勾留日数を差し引くので,5年8か月程度の刑になります。
事件を認めていないし,もちろん反省もしていない被告人に対して,検察官求刑の半分近い判決でした。
判決文は,検察官と被害者の主張をほとんどそのまま認めて被告人を有罪としていましたが,その後に続く文章では,何度読み返してもよくわからない理由で,被告人の刑を軽くしていました。
まるで被害者と被告人の主張の中間を取ったような判決でした。
被告人は控訴し,引き続き東京高等裁判所で審理が行われました。
東京高裁は,ほとんど審理をしませんでした。
どんな控訴事件でも,普通は短時間の被告人質問くらいは採用するのですが,この事件では,それすらもしませんでした。弁護側から提出された数多くの書証のうち,ごくわずかを採用して取り調べただけでした。
弁論は丁寧で分厚いものでしたが,主張の内容は一審と同じです。証拠が一審とまったく同じで,新しい証拠はほとんど何も採用されていないのですから,必然的にそうなります。
東京高裁での審理は,ものの数分で終わってしまいました。
判決期日は,およそ3週間後となりました。
そして,東京高裁は,被告人に逆転「無罪」を言い渡しました。
判決の内容は,一審及び控訴審の弁護人の弁論と,ほとんど同じでした。
一審の裁判員裁判の事実認定が不自然であったことを,正面から認めたのです。
おそらく東京高裁の裁判官は,最初に一審の記録を見た時点で,すぐに一審判決がおかしいことに気付いたのでしょう。
そのため,控訴審として自分たちが無罪判決を書くために,新しい証拠や審理は特に何も必要ないと考えたのだと思います。
だから,あえて何もしなかったのです。
その後,無罪判決は確定し,被告人は自由と名誉を取り戻しました。
一審が裁判員裁判であった場合について,裁判官だけの控訴審が一審判決を覆すことに,一部で批判が向けられています。
それでは,一般市民が長期間苦労して裁判員として参加し,審理・判決する意味がないというのです。
……それは違います。
人間は誰でも間違えるのです。
ときに裁判官が間違えるように,一般市民も,やはり間違います。
裁判員裁判でも,裁判官裁判でも,同様に間違いを正す制度が必要なのです。
ただし,控訴は被告人・弁護人だけに認めれば足ります。検察官による控訴を認める必要はありません。
検察官は,絶大な国家権力と国家財政をフルに用いて,一市民である被告人に対する一方的な犯罪捜査を行ったうえで被告人を裁判にかけて,それでも一審で負けたのです。
そのような検察官(国家)に対して,一市民を蹂躙するための二度目のチャンス(控訴の権利)を与えるべきではありません。市民が国家から訴追される危険(責務)は,一度限りのものなのです(これを,「二重の危険の禁止」原則と言います)。
これが刑事司法の国際標準なのですが,日本では認められていません。
裁判員裁判であれ,裁判官裁判であれ,否定されるべきなのは検察官による不利益控訴なのです。
ちなみに,本件は私が国選弁護人として一審にかかわった事件です。
被告人は原則として国選弁護人を選ぶことができず,それは控訴の場合でも同様です。
控訴審は,一審の国選弁護人がそのまま控訴審の国選弁護人となることを認めませんでした。
つまり,控訴審の弁護人は私ではなかった,ということです。
控訴審の逆転無罪判決を受けた私の率直な印象は,こうでした。
「だからそれ,一審で(私が)言ったじゃん……」
最近,裁判前の示談交渉事件を受任する割合が,以前よりも増えている気がします。
私の場合,以前から裁判外の代理人交渉を依頼されることは何故か多かったし,裁判前に交渉だけで解決する事件の割合も高かったのですが,このところ,さらに顕著な増加を感じるのです。
日本全体で見ても民事の訴訟事件数は年々減っていますから,弁護士増員の影響と相まって余計そう感じるのかな,などと思っていました。ですが,どうも違うようです。
単純に,私が受任する事件の中で訴訟事件が減って交渉事件がかなり増えた,という印象です。
理由を色々と考えてみて,思い当たることがありました。
そう!
私には武術や格闘技の経験があるので,数少ない「寝技が得意な弁護士」なのです!!
……これは違うな。
もともと私の武術は基本的に打撃系が中心で,投げ技はともかく寝技はそれほど好きじゃありません。
大体,男同士で寝技を練習するというセンスが気に入らない。
……いや,そういうことじゃない。
だが,待てよ。
そういえば,受任する交渉事件のうち,交渉の相手方が女性である割合がやたらと高いような気がします。
そうか! 寝技と言っても,そっちかっ!!
それなら好……じゃなくて,得意っ…………な……の,か??
それはともかく,これまで受任して交渉で解決してきた多数の事件を振り返ってみると,正直言って,ほかの弁護士なら,そもそも受任していなかっただろうと思われる事案が,かなり含まれています。
特に刑事事件を多く扱っていると,結果的に困難な示談交渉に立ち向かう機会が多くなります。
まったくお金のない被疑者・被告人の謝罪文一通だけを携えて,重大犯罪の被害者と示談交渉することも日常茶飯事です。
たとえ,最初から最後まで一方的に不利で,まったく見込みのないような示談交渉でも,最大限の努力と誠意を尽くさなければなりません。
そのせいか,民事事件の相談を受ける際にも,困難な交渉事件に対する抵抗感がほとんどなくなります。
普通の弁護士なら「無理だ」とすぐに断るような事案でも,「可能性はかなり低いが,それでもよければやってみましょう」ということになりやすいし,実際,やってみなければわからないものです。
もちろん,法律相談で甘い見通しを言うことは決してありません(むしろ,私はリスクの説明を厳しくしすぎる傾向があると思っています)。無理なものは無理です。明言します。
しかし,事案に潜むわずかな解決策の可能性に気付くことができれば,リスクを承知で,それに賭けてみる余地はあるでしょう。
ちなみに,私が考える示談交渉で最も大切なことは,話のうまさでも,腰の低さでも,押しの強さでも,色々な意味の寝技でもありません。
対立する双方の主張をまとめて,双方にとって利益となる優れた解決策(妥協案)を提案する能力です。これは,法的知識と経験を背景として,ある種のヒラメキによって生み出されるものではないかと思います。
交渉相手の多くは強い怒りをもっており,示談で紛争が良い方向に解決できるなんて信じようとしないし,示談のメリットもなかなか理解できません。
しかし,長引く紛争は,怒りだけでなく,同時に疲れや苦しみをもたらすものです。
良い示談交渉とは,すなわち,紛争の良い解決のための努力と工夫であり,それができていれば,交渉終結後に必ず笑顔でお別れできるのです。
刑法学(犯罪学)における有名な論争として,非決定論と決定論の争いがあります。
法学部の1年生や2年生が,最初の頃に学ぶ論点です。
法学というよりは,むしろ哲学的な言い争いであるため,実務とはまったく関係ありません。
ですが,どうにも知的興味を誘って心を捕らえる話なのです。
ごくごく簡単にまとめると,こうです。
伝統的な考え方である非決定論は,人間の自由意思を認めます。
人は,その自由な意思に基づいて行動すると考えるのです(そのため,非決定論のことを意思自由論とも言います)。
だからこそ,自らの意思で犯罪行為をした者に対して,刑罰という道義的な非難を向けることができると考えます。そして,やってしまった罪へのむくい(応報)として,その罪と等しい重さの罰を与えるのです。
それによって,犯罪行為の軽重と処罰を世間に知らしめることができ,犯罪は自然と防止されます。
刑罰は,軽すぎても重すぎてもいけません。万引き犯を無期懲役刑にすることは許されないのです。
これに対して,決定論では,人の行動は素質と環境により決定されていると考えます。
たしかに,純粋に科学的な視点に立つと,人に完全な「自由意思」があるなどという非決定論の前提自体が,既に幻想なのでしょう。
すると,DNAや生育環境や脳内電気信号で決まってしまった行動(罪)に対して,道義的非難(応報)など無意味です。
大切なのは,二度と罪を犯さないように国家が素質と環境を矯正することです。刑罰とは,個々の犯罪者の更生に向けた教育活動なのです。
そうなると,再犯防止のために必要な教育の範囲で刑罰が認められるのですから,犯した罪との均衡は問題になりません。再犯がないと確信できれば強盗犯でも処罰する必要がないし,痴漢をやめられない人には教育効果が上がるまで刑罰に何十年かけてもよいのです。
さて,皆さんならどちらが正しいと考えますか?
どっちも正しいような気がします……。
実際,応報刑と教育刑はどっちも大事で,実際の刑罰でも両方の考え方が使われています。
しかし,理屈の上では,両方とも正しいというわけにはいきません。
人間に自由意思があるのか,ないのか?
人間の行動はあらかじめ決定されているのか,いないのか?
どちらかしかあり得ないのです。
この論争は,人間に対する本質的理解の違いから出発しています。これについて真剣に考え出すと,堂々巡りでキリがありません。いわゆる「答えのない問題」のひとつだとも言えます。
しかし,刑法理論の出発点であるこの論争にどうにかして応えなければ,犯罪と刑罰について自分の考えを論じることはできないのです。
両派の考え方を止揚する第三の学説が色々と試みられていますが,まだ誰もが納得するような答えは提示されていません。
そのため,学者や法律家は皆,この問題について,いったん自分なりの「仮の答え」を出さなければなりません。そして,そこから自分の立場や考え方を積み上げるようにして導くのです。
それは,砂上の楼閣を築いては壊し,築いては壊す,果てしない道程にすぎないのでしょうか。
それもまた,人間という存在の本質なのかもしれません。
今年もクリスマス・イヴを迎えます。
日本では,「1年で最も多くのカップルがHする日」とか言われちゃってますが,もちろんイエス・キリストの誕生を祝うはずの日です。(誕生日は違うんですけど。)
しかし,「一緒にイヴを祝おう」なんて甘い言葉を囁いて,とりあえず酒を飲ませて予約したホテルに……とかって,それ何を祝ってるんですか?
まったくもって,うら,けしからん。
大体,クリスマスの前日の夜に「クリスマス・イヴを祝う」とみんな言いますが,どうして前夜を祝うんでしょうか?
たいていの日本人は,これを新年のカウントダウンみたく考えて,25日のクリスマスになる0時ちょうどの瞬間を大切な人と一緒に迎えて祝うために,その前夜を一緒に過ごすんだ(という口実でお泊まりに誘うんだ)と思っているようです。
自分は真面目なキリスト教徒だという友人から,そのようなことを聞かされて言葉に詰まったこともあります。
これ,違いますからね。
そもそも,イヴは前夜じゃありません。クリスマスです。
イヴ(Eve)の語源は`Evening'と同じ。日没後の意味です。
「だったら『前夜』でも大体あってるからいいじゃん」と思うかもしれませんが,そうじゃないんです。
イヴは,もうクリスマス当日なんです。「前」じゃないんです。
キリスト教で用いられる教会暦では,日没と同時に日付けが変わるんです。
なので,キリスト教で言うクリスマスは,24日の日没から25日の日没までが正確です。
つまり,クリスマス当日になった瞬間である24日の日没(夕方)を祝うことから,クリスマス・イヴと言われるんです。
だからイヴは,もうクリスマスなんです。クリスマスそのものをクリスマス当日に祝っているのであって,前夜を祝っているのではありません。
まぁ,日本では教会暦を使っていないので,公式の暦で25日に切り替わる0時ちょうどをもって「クリスマスになった瞬間」を祝うんだと言うのなら,それは必ずしも間違いではないでしょう。
ただ,もしそうであれば,言葉本来の意味でのクリスマス・イヴは,日本には初めから存在しないのです。単に「クリスマスを祝う」と言うべきです。
あるいは,25日の日没(夕方)であれば,もしかすると日本の暦でのクリスマス・イヴだと言えるかもしれませんけど,なんか祭りの終わりを祝うような哀しいことになるでしょう。
いずれにしても,12月23日をイヴイヴとかって言われると,もう何が何だか判りません。
で,クリスマスと言えばサンタクロースなわけで,誰かプレゼントください。
いや,それはおいといて,サンタクロースの起源ではないかと言われているのが「聖ニコラオス」というキリスト教の聖人です。
無実の死刑囚を救ったなどという数多くの伝説を残す人物です。
そのクリスマスの近づいた今月18日に死刑の執行をした日本政府の面々には,間違ってもクリスマスやサンタクロースの話題で笑顔を振りまくのはやめてほしいなと思います。
来年9月頃には,マザー・テレサが「聖人」に列せられることが決まったそうです。
彼女の偉大さや素晴らしさを否定する人は,日本のどこにも,誰も,いないでしょう。
そして,彼女が日本の死刑制度に強く反対するであろうことは,誰しも想像に難くありません。
なのになぜ,彼女の伝えた「愛」を理解できるはずの私たちは,まだ死刑制度を廃止できないままなのでしょうか。
2016年1月14日午後6時から,「第86回・国際人権に関する研究会『LGBTの人権』」が日弁連・弁護士会館にて開催され,私も出席してきました。
「国際人権に関する研究会」は,日本弁護士連合会が定期的に開催しているオープンな研究会で,興味のある方は誰でも参加できます。毎回テーマを変え,当該分野の研究者の方などを講師にお招きして,国際人権や条約をめぐる諸外国・国際機関の最先端の動きを学んでいます。
日弁連の主催と言っても,実質的には私も所属している国際人権問題委員会で企画運営する行事です。国際人権は,ダイナミックで動きの速い分野ですので,時間の許す限り自分でも参加して,常に新しい知識を補充するようにしています。
そうは言っても,日中の業務や会議で疲れ切ってしまうと,つい参加を取りやめて帰りたくなることも多々あります。
意地を張って参加しても,やっぱり寝てしまうとか……。
実はこの日も,眠気と闘う気が満々の状態(要は,疲れていて帰りたくてしょうがないけど,自分で参加を決めた以上,とにかく帰らない)でした。
ですが,はじまってすぐに,眠気が吹っ飛びました。
久々に(と言っては何ですが),本当におもしろい研究会でした。
この日は,柳沢正和氏(NGOヒューマンライツウォッチ東京委員会委員)と谷口洋幸准教授(高岡法科大学)が講師をしてくださったのですが,特に柳沢氏のセッションが素晴らしかった!
冒頭,簡単な導入の後,いきなり会場から参加者数名が紹介され,そのままパネルディスカッションに突入。
中には素顔を隠す仮面を付けて参加する人までいて,ビジュアル的にも驚きです。
以下は,柳沢氏のセッションのネタバレになりますが,LGBTを理解するための比喩として最も知られた話のひとつだと思いますので,どうかご容赦を。<(_ _)>
さて,今これをご覧の皆さんの中に,
「佐藤さん,鈴木さん,高橋さん,田中さん,伊藤さん,渡辺さん」
は,おられますか?
この法律夜話を100人の方が読んでくださっていると仮定して,そのうち7人くらい,いるはずの計算です。
「佐藤さん,鈴木さん,高橋さん,田中さん,伊藤さん,渡辺さん」は,日本人に多い姓の上から6つで,人口比の合計は7%強になります。
では,皆さんの中で,
「佐藤さん,鈴木さん,高橋さん,田中さん,伊藤さん,渡辺さん」
という名字の『知り合いがいる』という方は,どのくらいおられますか?
当然,いますよね?
日本人であれば,ほぼ「100%」になるはずなのです。
ですが,なぜかそうならないのが,LGBTという問題です。
皆さんは「LGBT」(エル・ジー・ビー・ティー)と聞いて,すぐに何のことだか分かるでしょうか?
LGBTは,
の略です。
実際には,このLGBT以外にも,多様な性的少数派の人々がいます。
研究会でも,たとえば「女装する男性」の性について,芸能人の例などが話題にされました。
LGBTという用語自体が,もともと異なるカテゴリーをただ並べただけなのですから,いずれ何かに取って代わられる言葉だと思います。
そのため,最近では「SOGI」(ソギ=Sexual Orientation and Gender Identity)という用語が,より価値中立的な表現として好まれつつあるようです。
先ほどの会場からの参加者の皆さんは,その場で(仮面のお一人を除き)実名や勤務先まで明かしてご登壇くださったLGBTの方々でした。
そんな状態でのぶっちゃけ話が,おもしろくないわけがない!
もちろん,ゲイバーがめっちゃ楽しい(らしい)というのとは違いますよ。とってもまじめな研究会です。
ともかく,今回の研究会については,せめてそのエッセンスだけでも多くの方にお伝えしたくなりました。
少し長くなりそうなので,中身の続きは次回ご紹介します。
ちなみに,続く第二セッションで谷口洋幸准教授がLGBTに関する国際人権の最新の先例を,すごい勢いで鋭くコンパクトにまとめて講義くださった(らしい)です。
けど,一瞬にして寝落ちしてしまい,ほとんど聞いてなかったのは内緒。
引き続き,「第86回・国際人権に関する研究会『LGBTの人権』」からご報告です。
前回,柳沢氏の冒頭の話題をそのまま引用させていただきました。
それは,日本人なら誰でも,「佐藤さん,鈴木さん,高橋さん,田中さん,伊藤さん,渡辺さん」(日本人の7%強を占める名字の人々)の知り合いがいるに違いない,という話でした。
ところで,研究会での報告によると,LGBT人口比は現在7.6%程度(ただし,統計上把握できる数字として)とのことです。
「佐藤さん,鈴木さん,高橋さん,田中さん,伊藤さん,渡辺さん」よりも,LGBTの人のほうが,多いのです。
したがって,皆さんのすぐ近くに佐藤さんや鈴木さんたちが必ずいるように,LGBTの人が周囲に何人もいるのです。
ただし,皆さんがそれに気づけるかどうかは別です。彼らがそのことをあなたに打ち明けていない可能性は,とても高いからです。
「性(性別)」という概念には,少なくとも,
・体の性(身体的性別)
・心の性(精神的性別)
・アピールする性(性別表現)
・愛する性(性的指向)
という4つの種類があると考えられます。
多数派(ゆえに私たちが「普通」だと言っている状態)は,上の3つが一致していて,愛する性がその反対の性です。
しかし,多数派と同じ「性」を持たない人が,現実には,世の中にたくさんいます。それがLGBT(SOGI)です。
4つの性の概念それぞれについて,別々の男女の自覚の仕方があります。
それだけなく,「中間・中性」(両方,あるいは曖昧で未定・未分化)という場合もあり得ます。
人が自覚する性別の組み合わせは,本当はすごい数なんですね。
そのうえ,自分がLGBTであることに気付く年齢が様々です。
物心ついた頃から違和感を感じている人もいれば,普通に異性を愛して,結婚して,子どもを育てて世に送り出し,熟年期に入った人が,あるとき本当の自分に気付くことだってあります。
つまり,人生の途中で4つの性別のうちのいくつかが変化する可能性もある,ということです。
しかし,LGBTであることをカミングアウト(カムアウト)できるのは,とても意思の強い人か,環境に恵まれた人だけです。
たくさんのLGBTの人々が,性的少数者として差別や偏見にさらされたり,本当の自分を隠して生きることを余儀なくされたりするのは,悲しいことだと思います。
研究会で登壇したLGBTの方々は,LGBTの人々に向けて,
「勇気を出してカミングアウトすべきだ」
などとは,決して言いませんでした。
それが難しい現実を,体で理解しているからだと思います。
しかし,その代わりに,私のようなLGBTでない人々に向けて,
「是非,カミングアウトしてほしい」
という趣旨の言葉がありました。
別に,LGBTになってくれとか,無理に共感や納得をしてくれということではありません。
けれども,その相手がLGBTを「気にしない人」かどうかは,「気にしないよ」と直接言ってもらうまでわかりません。それがわからない限り,LGBTの人は,何十年でもずっと固く身構えてその人と接していかなければなりません。たとえ,その相手が自分の家族でも。
先にLGBTでない人々,つまり,現在多数派である人々の側から,
「私はLGBTに偏見を持たない,差別しない」(=「LGBTフレンドリーである」)
という宣言を聞くまで,LGBTの人々の側から本当の自分を打ち明けることなんて現実には怖くてできっこない,というのです。
その通りだなと思いました。
ノンケであってもLGBTに偏見を持たず支援する人々のことを,「ストレート・アライ」(Straight ally)と呼ぶようです。
支援なんて言ったら,何か特別なことをするような気もしてしまいますが,必ずしもそうじゃないと思うんです。
「LGBTの打ち明け話を聞いても,私は,『だから,どうしたの?』,『別に,いいんじゃない?』って思うよ。」
っていう,その気持ちを,はっきりと口に出して先に宣言しておく。……ただ,それだけ。
たったそれだけのことでも,普段,クローゼットの中に隠れるようにして生きているLGBTの人が,顔を上げて本音を話せる相手を‘一人’増やせるかもしれない。あるいは,カミングアウトまではできなくても,その言葉を聞いたときに心の中がほんの少しだけ楽になれるのかもしれない。
それで,いいんじゃないか。
この世界から,目に見えない属性に基づく偏見や差別をひとつひとつ無くしていく過程では,誰にでもできるそういう小さなことが,とてもとても大事なんじゃないかなと思いました。
私は,LGBTフレンドリーですよ。
有名元プロ野球選手が覚せい剤事件で逮捕されました。
有名人だと,薬物事件でも不倫・浮気でも解散騒動でも,報道がすぐに大きく,しつこくなりますね。
その本人たちにとっては,自ら人前に出る仕事を選んでいる以上,いわゆる有名税だったり,むしろ好都合だったりするのかもしれません。
けれども,毎日マスコミを通じてそれを見せられる側としては,「またか」と思ってあきれるしかありません。
日本でも世界でも,日々新たな重大問題が起こっているのに,どうして芸能人や有名人のゴシップばかりをトップニュースで追いかけ続けるのでしょうか。
……などというのはいつもの愚痴でしかなくて,さすがに「覚せい剤」は小さな事件じゃないよと,怒られるかもしれません。
たしかに,覚せい剤が極めて有害な違法薬物であることは否定できません。
一体,誰がその違法収入を得て何に使っているのか,という販売組織の問題も大きいです。
できることなら撲滅されてほしいと,心から思います。
ただ,ですよ。
「頭ではダメだと思っていても,目の前の快楽に負けてしまって,どうしてもやめられない」という状態は,人間なら誰しも,日常的に経験していることです。
実は,人間って,苦痛には想像以上に耐えられるのですが,脳の中に生じる快楽には,ほとんど耐えられないんです。
それが人間の生物としての本能であり,存在の欲求そのものだから。
たとえば,肺を悪くして苦しいはずなのに,咳き込みながらもタバコをやめられない。
検診の結果が悪かったうえに小遣いも減らされたのに,飲んで帰らずにはいられない。
絶対に太りたくないのに,ケーキを食べてしまう。
ホントは貯金をしたいのに,買い物や遊びで散在してしまう。
……。
脳の中で起こっていることは,みんな覚せい剤の常用と同じなんです。
もちろん,覚せい剤には薬理作用としての依存性がありますから,なおさらやめるのが難しくなります。
ですが,本質はそこじゃないんです。
よく,仕事や勉強が嫌で遊んでしまう人に対して,「苦しいことから逃げるな」と言いますが,厳密には間違いでしょう。
あれは,「苦しみから逃げている」のではなく,目の前の「楽から逃げられない」だけです。その結果,後々自分が苦しむことになるのを,頭では分かっているのです。でも,やめられない。
理屈で言えば,「我慢の先にある喜び」を徹底的に理解することで,耐えられるはずです。
タバコをやめられた際の開放感とか,ダイエットできたときの満足感とか,勉強の成果としての志望校合格,仕事で得られる成功や報酬……。覚せい剤なら,やめられること自体が既に多大な報酬とも言えるでしょう。
けれども,現実に目の前にある快楽を避けることは,人間にとって,そう簡単じゃありません。
残念ながらそれに失敗してしまった人に対して,鬼の首を取ったかように一方的に責め立てるのは,どうかと思うのです。
そもそも,私たちの世界において許されるべきこととそうでないことの区別について,常識を疑って,もう一度よく考えてみてはどうでしょうか。
覚せい剤を自分の部屋で自分で使っても,本当にそれだけなら,直接的には誰にも迷惑をかけない。少なくとも,私もあなたも他の誰も迷惑を受けていない。
けれども,屋内でも屋外でも,タバコを吸わない人がいる場所でタバコを吸えば,必ず迷惑をかけます。
最低でも副流煙による暴行罪(刑法208条,2年以下の懲役刑等)が成立するはずだし,理屈上は傷害罪(刑法204条,10年以下の懲役刑等)も成立し得る行為です。(ちなみに,覚せい剤の自己使用罪は10年以下の懲役刑です。)
人前での喫煙が現実に処罰されていないのは,そういう迷惑行為をする人があまりにも多すぎて,事実上取り締まりができないからにすぎません(刑法的には,せいぜい違法性阻却事由の有無が問題になる程度と考えられます)。
もし,捜査機関が一念発起して,喫煙の副流煙による暴行罪で誰かを起訴したら,今の日本の法律の下で無罪判決を書ける裁判官は,まずいないでしょう。
極めて微妙な社会常識という幻想の下で,なぜか許されてしまっている行為なのです。
あるいはまた,不倫は今の日本では反社会的行為として強く批判されますが,一夫多妻や多夫多妻の国では,「不倫」という言葉自体が,憲法で認められた人間の基本的人権・自由の制限につながる批判とみなされるかもしれない。
日本での覚せい剤の劇薬指定は昭和24年。取締法ができたのは昭和26年。
それまで覚せい剤は,「ヒロポン」などの商品名で,強壮剤として普通に売られていました。今で言う栄養ドリンク剤のよく効くやつって感じです。
ヒロポンは,あの「サザエさん」の原作にも出てきてますよ。
社会の常識や倫理なんて,時と場所でまったく変わるものです。
ま,だからと言って,覚せい剤に手を出すのが大馬鹿者であることには,何の変わりもありませんが。
先月,一泊で金沢に出張してきました。
「犯罪被害者支援全国経験交流集会」というのが毎年あり,今年は金沢で開催されたのです。私は,埼玉弁護士会の犯罪被害者支援委員会委員として参加しました。
1月の金沢ですから,雪景色を期待して(寒さを覚悟して)行ったのですが,残念ながら雪は降らず。
とは言え,寒いことは寒くて,しかも初日は雨,というか完全に嵐で,ずぶ濡れになりました。
それでも,兼六園が夜間ライトアップをしていたので頑張って入ってみたところ,至る所に雪が残っいて,とても風情があるような,それどころではないような……。
さて,今年の被害者支援交流会のテーマは,「外国人被害者に対する支援活動」でした。
刑事弁護・刑事裁判の観点から制度改革の必要性を指摘される司法通訳の諸問題が,この犯罪被害者支援の分野でも,やっと取り上げられるようになりました。
パネルディスカッションで,たまたま外国人被害者ご遺族の担当になったという警察官の方が,面白いことを言っていました。
彼は,外国人の被害者のご遺族が日本に滞在した数十日間,毎日朝から晩までつきっきりであらゆる手を尽くして支援に努め,最終日には,何もかもできることはすべてやり切ったという気持ちで,ご遺族を空港まで見送りました。
そのとき,不覚にも彼の中で,「ああ,これは感動の別れの場面になるだろうな」という,ある種の予感があったそうです。
そして,空港での別れのシーン。
ご遺族たちは,何の名残惜しさもなくスタスタと帰って行ったそうです。
笑いを交えて語ってくれた話でしたが,そのとき彼の考えたことは,さすがにプロでした。
曰く,
「当たり前じゃないか。被害者やご遺族は,『日本で』殺されたんじゃない。『日本に(日本人に)』殺されたんだ。だから私たちは,日本国として,日本人として,もっともっとできる限りのことをしなければならない。」
そのような思いを,かえって強くしたそうです。
一方,同じパネラーの通訳人の方から,こんな話がありました。
彼女は,捜査通訳人として,被害者のご遺族である外国人の事情聴取を通訳した際の体験として,
「自分なりに,被害者に寄り添う気持ちを精一杯込めて通訳できたのが良かった。」
と,嬉しそうに何度も語りました。
残念ながら,こちらは違和感の残る発言でした。
もし,外国人被告人の公判を担当した法廷通訳人が,「えん罪を確信していて,無実を晴らそうという気持ちを精一杯込めて通訳した」と述べたら,どうでしょうか。
あるいは,外国人被疑者の取り調べを担当した捜査通訳人が,「有罪の確信(コイツがやったに違いないという気持ち)を精一杯込めて通訳してやった」などと語ったら,さすがにおかしいと思わないでしょうか。
通訳人といえども人間ですから,当然,心は動くでしょう。
まして,無罪を推定される立場の被疑者・被告人と違って,被害者やそのご遺族の場合,その人が被害を受けたという事実には疑う余地がない,ということも多いのです。
しかし,それでも,プロの通訳人である以上,動く心を抑えて正確な通訳に徹したことにこそ,喜んでほしい。
少なくとも,限界までその努力をしたという体験を語ってほしかったと思います。
同じ司法通訳の問題点について,私は主に刑事弁護の立場から専門的な研究を続けています。
金沢行きの少し前,昨年12月には,日弁連主催の「実践 法廷通訳と弁護技術 スキルアップのための研修会」で,司会進行役を努めました。
この研修は,弁護人と通訳人の協働という観点から法廷通訳技術を高めあおうとするもので,一昨年の研修会に続いて,大変な盛況となりました(ご興味のある方は,2014年9月7日のブログ「 法廷通訳の新世界へ! 」も参照ください)。
内容的には初歩から中級くらいのレベルの研修でしたが,弁護士が笑っちゃうほど下手くそな実演をしながらの講義で(実演役の先生方,ごめんなさい!),それはそれで印象に残るし,大変面白かったのではないかと思います。
中級までのレベルとはいえ,学術的な研究成果や通訳人倫理などにも触れながらの講義は,学ぶところの多いものでした。
それと比べると,外国人犯罪被害者の支援活動の中で語られる通訳問題は,実践と研究がまだ圧倒的に不足していると感じました。
もちろん,それは仕方のないことなんです。
もともと,日本では外国人の刑事裁判が比較的少ないからこそ,予算が回らずに,諸外国よりも司法通訳制度が立ち遅れているわけです。
まして,外国人が被害者になる事件の数なんて,さらに少数もいいところです。
どうしても,制度的に置き去りにされる危険が高いと言えます。
だからこそ,様々な専門家がそれぞれの立場で,積極的な「支援」をすることが必要なわけです。
私にできることはごくわずかですが,今後もできる範囲で「支援」を続けていきたいと思います。
相続事件を扱う弁護士の間でよく話題になるのが,「(共同)相続人の不思議な心理」についてです。
共同相続人(相続人が複数いる場合)は,ほとんどが親族です。
しかし,弁護士が介入するような相続紛争においては,血を分けた親族同士が,文字通りの骨肉の争いを繰り広げることがあります。
しかも,その立場になったことのない者には想像もつかない形で。
最大の特徴は,自分がいくら受け取れるのかではなく,とにかく「きっちり分ける」ことのほうが重視される,という傾向です。
不思議なことに,争われている分割対象財産が数億円規模でも数百万円程でも,その傾向は変わりません。
分かりやすく簡略化したモデルで言うと,こういうことです。
共同相続人としてAさん,Bさん,Cさんがいるとします。分割対象となる遺産は1億円です。
法定相続分は1/3ずつですが,遺言の解釈や寄与分,特別受益などの様々な事情から,Aさんが4000万円,Bさんが3000万円,Cさんが3000万円という案が出ています。
これに対して,Bさんは納得してますが,CさんがAさんに対する不満を述べていて,協議が成立しません。
この場面で,AさんがCさんに譲歩して,Aさん3500万円,Bさんが3000万円,Cさんが3500万円ということにしようとすると,たとえCさんが納得しても,今度は何故かBさんが不満を述べます。
Bさんにとって,Aさんの受取額が高くなるのは納得できても,Cさんが自分よりも高くなることは不公平で納得がいかないというのです。
それどころか,何故か金額の増えたCさんが拒否することもあります。
Cさんからすると,平等に1/3ずつ分割すべきであって,AさんとCさんだけで多い分を分け合うなんて不公平で許されないというのです。
もちろん,1/3ずつにすると一人につき約3333万3333円ですから,Cさんの取り分はAさんの譲歩案を受け入れた場合よりも減ります。それでも,Cさんの意見は変わりません。とにかく公平に分割すべきだ,という主張です。
ときには,本当に1円単位まで不満が出ます。
1/3ずつ平等に分割する案で合意しようとすると1円が余りますね。それを誰が取得するのか?
1円なんて,金額としては誰にとっても本当にどうでもいいことだと,みんなが分かっています。
それでも,たとえばその1円をAさんが取得しようとすると,Cさんは,「なんでAの評価がオレたちより高くなるのか。Aじゃなきゃいけないのか。」と反発します。
この不思議な相続人の心理を説明できる心理学実験があります。
ただ実験に参加するだけで,ほとんど何もしなくても本当にお金がもらえるという夢のような話です。
1回の実験参加者は2名です。
心理学者は,参加者のうち,くじ引きで選ばれた1名に1万円(の権利)を渡し,それをもう1名の参加者と分け合ってもらいます。
2名のどちらがいくらをもらうかは,1万円を渡された参加者が決められます。
もう1名がその決定を承諾すれば,2名とも,決められた金額を受け取ってすぐに家に帰れます。
ただし,もう1名が受け取りを拒否した場合は,2名ともお金を受け取ることが出きず,そのまま家に帰されます。
さあ,自分も実験に参加したつもりで,自分がどちらの立場になったときに,どう行動するか,考えてみてください。
~ 「公平な相続とは何か?(2)」 へ続く
前回の実験(「 公平な相続とは何か?(1) 」参照)の結果を予測できましたか?
経済的合理性の観点から客観的に考えれば,金額を自分で決められない方(決められたお金をもらうだけ)になってしまった参加者は,たとえ相手にいくらと決められても,もらえるだけマシです。もらって損はありません。
したがって,どんな分け方を決められても,承諾しないことは自分の損にしかなりません。答えはYESに決まっているはずです。
翻って,くじ引きに当たって金額を決められる方の参加者になったら,どうでしょうか。
もちろん,素直に半々にすることもできますが,たとえ自分が多く受け取ると決めても,相手は承諾するしかない立場です。
したがって,自分を多めに決定するのが合理的判断です。
ところが,この実験の結果,多くの参加者たちは,きっちり半々に分けた5000円ずつを受け取って,喜んで帰りました。
自分を多めにする決定をした参加者も少数いましたが,その場合,もう1名が不公平な決定に不満でほとんど承諾をせず,2名ともお金を受け取れずに帰る結果となりました。
このように,ある特定の文化の下にいる人間は,経済的合理性よりも公平性を重視する結果,客観的には割の合わないはずの「不合理な決定」を好んで行う傾向があるのです(「公平性(に関する認知)バイアス」)。
実験内容からこの結果を予測できた人は,直感的に「公平性バイアス」の存在を前提に判断できた,常識ある賢明な方だと思います。
そしてこれこそ,「相続人の不思議な心理」を解く鍵です。
第三者の立場から見れば,相続財産なんて天から降ってきたようなものです。もらえるだけマシじゃないかというのが,経済的合理性に基づく客観的判断のはずです。
しかし,いったん当事者の立場になると,誰でも「公平」という名の目に見えない観念に支配され,一見すると「不合理な決定」を導くのです。
もちろん,現実の相続争いはもっと複雑で繊細(ときにはもっと極端)です。
被相続人(亡くなった人)の生前の言動や相続人との関係,共同相続人同士の関係などの様々な事情の下,そもそも当該相続において「公平」とは一体何なのかが争われているのです。決して単純ではありません。
けれども,そこにはほぼ間違いなく,人間心理の一つの側面である「公平性バイアス」が存在しているのです。
ところで,この実験はアメリカで行われました(日本で行っても同じ結果になるでしょう)。
しかし,同じ実験を某国のある特定の部族で行った際には,まったく異なる結果になったそうです。
すなわち,かなりの高確率で,決定者は自分に都合の良い割合を勝手に決め,もう一人はその不公平な決定をためらいなく承諾し,2名とも満足して帰っていったのです。
彼らの文化の中には,どこの誰が決めたのかも分からない「公平」などという目に見えない観念に価値はなく,目の前のお金を実際にもらえるかどうかだけが問題だったのです。
常識も観念も文化も,特定の時代の特定の場所でしか通用しない幻想にすぎません。
したがって,もしあなたが,アメリカでの実験参加者の大多数と同様に,人間の「公平性バイアス」の存在を予測して(常識ある賢明な)判断をしたとすれば,それは,無意識のうちに特定の「文化バイアス(文化に関する認知バイアス)」に支配されていた結果である,とも言えるでしょう。
人間は,「常識」の幻想からは逃れられないようです。
私は刑事事件を専門分野のひとつとして取り扱っているため,刑事弁護人の立場あるいは被害者支援の立場で,常に多数の犯罪事件に関わっています。その中で,特に犯罪被害者の方々と直接向き合うときには,弁護人であるときも被害者代理人であるときも,同じく特別な想いを抱きます。
私に限らず,何らかの形で刑事事件に関わる弁護士の想いが一番形になって現れるのは,なんといっても示談の場面でしょう。
刑事事件と向き合うその弁護士の想い(もっと率直な言葉で言い換えれば「真剣さの程度」)によって,示談の形も結果も意味も,大きく変わります。
法的に「示談」とは,民事上の債権債務の不存在を確認すること(通常,一定の示談金を支払うことで,それ以上の損害賠償請求権を放棄するという約束をすること)です。
示談に付随して,被害届の取下げや告訴の取消しを行うこともあります。
それと同じことのようでもあり,違うようでもあるのが,「赦す(ゆるす,許す)」ことです。(より難しい専門用語で「宥恕(ゆうじょ)」とも言いますが,経験豊富な弁護士は,あえてこの言葉を使いません。)
よく誤解されていますが,被害者は,別に犯人のことをちっとも赦してなくても,示談していいし,お金を受け取っていいし,告訴を取り消してもいいのです。それは被害者の自由ですし,当然の権利でもあります。
そのことをきちんと説明できない弁護士では,せっかくの被害回復の可能性を狭めてしまいます。
また,そういう意味では,「赦し」それ自体は法律問題ではない(法的には不要)と考えられていると言ってもいいでしょう。
もちろん,被害弁償や示談などの結果として,犯人の刑罰が軽くなる可能性はあります。
だから,赦していないのに示談するなんて嫌だというのも,人として当然の気持ちです。
示談が刑事罰にどのような影響を与えるのか,あるいは与えないのかを,正確に見通して説明できることが必要です。
しかし,赦すことには,こうした法律上の効果を超えた意味があります。
私は,被害者が犯罪によって受けた苦痛から回復し,心の傷が修復されていくためには,3本の蜘蛛の糸があると考えています。
第1の糸は,「時間」です。
第2の糸は,「赦す」という感情です。
第3の糸は,「謝罪と弁償」です。
「時間」は,誰にも平等に訪れます。他の何がなくとも,時間だけは被害者の味方になり得ます。
もっとも,あまりに大きすぎる被害では,時間さえ,限りない苦痛そのもののように思えることもあります。
「謝罪と弁償」は,犯人側との関係です。それだけに,被害者側が得ようとして得られるとは限りません。
そこでは,刑事弁護人の役割が極めて重要になります。
ただ,仮に得られたところで,それが被害者の心の修復に結びつくとは限りません。
「赦し」は,最も困難な道です。ほとんどの場合,それは不必要で不合理で不可能な選択のように思えます。
けれども,赦しは同時に,被害者が,自分で自分を取り戻せる唯一の道でもあります。
被害者が,弁護人を通じて示談の申し出を受け入れ,かつ,犯人を赦すということは,すなわち,受けてしまった犯罪被害に対して,自らの意思でひとつの決着をつけたことになります。自分の心の中で,その事件を終わらせたということです。
赦すという行為は,その瞬間には苦しすぎる試練と感じる選択ですが,その後の人生の中で,自らの犯罪被害という経験の意味や重さをまったく変えてしまうことになります。
もちろん,なんでもかんでも赦せばいい,赦すべきだなんて話ではありません。そんな簡単なものじゃありません。
特に,もう2本の蜘蛛の糸をつかめないうちに「赦し」の糸だけを選び取れるかと言われれば,それは普通の人には無理でしょう。
「赦し」は被害者自身だけに選択を許された道であり,第三者から与えられる「癒し(いやし)」ではありません。弁護士がお手伝いできることも,わずかです。
けれども,もしも,適切な示談等の過程を通じて,それに加えて「赦す」という気持ちを持てたとしたら,それは,単に高額の被害弁償金の授受があることよりも遥かに価値のある結果になると思います。
実際に私は,赦すことを通じて被害者が自らの力で癒されていく希少な場面に,これまで何度か遭遇してきました。
赦すのは,犯人のためではありません。自分自身の心と人生の美しい価値を守るために,赦すのです。
最近読んだ本の中に,たまたま,こんな一節がありました。
~ 自分の幸福のために,相手を「許す」 ~
あなたをひどい目にあわせた人間を憎んだままでいると,その憎しみにあなたはとらわれ続けてしまいます。あなたの心の傷は,被害者意識というかさぶたの下でずっと膿をもったままになりかねません。
「許す」とは,実際に起こった事実を受け入れることを意味するのではありません。「許す」というのは,その事実がもたらす不運が,あなたの人生を損なうことを「拒否」することなのです。自分の幸福のために許すべきなのです。
(ドミニック・ローホー/「『限りなく少なく』豊かに生きる」より)
裁判員候補者の「無断欠席」が約4割に達し,最高裁が対策を検討している,という報道がなされています。
……う~ん。
言葉どおりの意味でも十分すぎるほど重大問題なのですが,それだけでは済まない突っ込み所が,実はたくさんあります。
皆さん,「裁判員候補者名簿に載った」という裁判所からの通知を受け取ったことがありますか?
裁判所は,毎年11月ころ,翌年の裁判員候補者となる人をクジで選び,裁判員候補者名簿というのを作っています。今のところ,裁判員候補者名簿の候補者となるのは,衆議院議員の選挙権を有する人(20歳以上)ということになっています。
ちなみに,2016年の裁判員候補者名簿に載る確率は,有権者454人に1人でした(全国平均)。
これは,あくまでも「候補者名簿」なので,そこに載ったからといって,実際に特定の事件で裁判員に選ばれるとは限りません。
でも,その名簿に載ると,とりあえず「載ったよ!」という通知が来るのです。
そこには,調査票というのが一緒に入っていて,裁判所が就職禁止事由や辞退事由などを調べます。
要するに,法律上裁判員になれない人などをあらかじめ排除するわけです。
たとえば,義務教育を終了していない人,禁錮以上の刑に処せられた人,国会議員,知事・市町村長,司法関係者(裁判官,検察官,弁護士など),大学の法律学の教授・准教授なんかは裁判員になれないのです。
でも,弁護士や大学教授は民間人であって,普通の感覚を持った一市民にすぎないのですから,何で排除されるのか私には理解できません。
「市民参加の意義に反する」とか何とか理由を付けていますが,弁護士や法律学の教授などの法律の専門家が裁判員になると,判決を書く裁判官たちが都合良く説得できなくなって困るので,はじめから裁判員になれないことにしているだけです。
まったく馬鹿馬鹿しいですね。情けない。
それはともかくとして,候補者名簿に載って,調査票で排除されなかった人は,特定の事件で裁判員に選ばれる可能性があります。
もっとも,この段階でも,またクジがあります。
おおよそ裁判員裁判が開かれる6~8週間前になると,裁判員候補者名簿の中から更にクジで「当該事件の裁判員候補者」が選ばれ,裁判所に呼び出されます(文字どおり「呼出状」という書面が送られて来ます)。
呼び出す人数は,事件の内容や規模などによって違います。
裁判が数日で終わる一般的な事件であれば,50~60人くらいを呼び出すことが多いみたいです。
このときには,質問票というのが一緒に入っていて,裁判員として審理に参加することを辞退しなければならないような事件との利害関係だとか,やむを得ない事情だとかがないかどうかを確認されます。
「70歳以上の人」だとか「学生」だとか「重要な用務」だとかの辞退事由があることを裁判所に伝えれば,呼出に応じなくても構いません(呼出が取り消されます)。
また,実際には,呼出には応じたけど,当日,「やっぱり,どうしても辞退したい」と訴えて裁判所に辞退を認められる人が,必ず何人かいます。
裁判官の考え方にもよりますが,辞退事由をかなり緩く認めることが多い印象です。
やる気のない人に嫌々裁判員をやられると,一番最初に困るのは,その裁判員と何日も顔を突き合わせて話をしなければならない自分(裁判官)だからです。
もちろん,検察官も弁護士も被告人も困りますけど,裁判員と直接話をすることがないので,やる気も何もほとんど分からないんです。
裁判所は,この手続で呼び出され,当日の辞退もなかった人の中から,最後のクジによって裁判員6名と予備裁判員を選びます。
予備裁判員というのは,裁判員が途中で急病とか事故とかになって欠員が生じても,人数不足で裁判を最初からやり直さなくて良いようにするために,裁判員と同じように最初から最後まで裁判を見続けておく人です。
もっとも,ただの予備ですから,議論には参加できないし,判決に影響する評決権もありません。裁判員に欠員が生じない限り,「ただ裁判を一緒に見ているだけ」の人です。
予備裁判員は2名くらい選ばれていることが多いですね。
そうすると,たとえば60人呼び出して,選ばれるのは裁判員6人と予備裁判員2人とかです。
残りの人は,そのままお帰りいただく,ということになります。
逆に,選ばれた人は,選ばれた直後に,すぐ裁判員として裁判官と一緒に法廷に座ることになります。
選任手続は,当該裁判の初日の朝から行われているからです(裁判員が裁判所に来なければならない日数を1日でも減らすためだそうです)。
じゃあ,ここで冒頭の報道に戻りますね。
裁判員になるのが嫌だからといって,選任手続に呼び出されたのに無断欠席したら,どうなると思いますか?
実は,正当な理由なく欠席した人には,「10万円以下の過料」という罰則があるのです。
そこが今まさに大きな問題になっています。
ここまで無断欠席が広がっているのに,罰則の適用例は「一件もない」からです。
今は,呼び出された裁判員候補者の約4割が無断欠席という状態です。
この無断欠席率は毎年上昇していて,まったく歯止めがかかりません。
しかも,この数字には,まだトリックがあります。
最初の調査票で排除された人はもちろん,正当な理由があって辞退して呼び出しが取り消された人や,当日なんだかんだと言って辞退が認められた人などは,この4割の中には入っていないのです。
それに加えて,辞退事由が結構緩い。
そうすると,無断ではないけど事実上の欠席や選任拒否(辞退)をしている人を全部含めれば,4割どころか,ホントはもっとすごい数になっています。
(※2018年12月現在では,裁判員候補者に選ばれた人の中で実際に裁判所に出頭した人の割合が,おおよそ「4人に1人」という異常な状態になっています。欠席が7割を超えているということです。)
最高裁は,出席率向上のための取り組みをするそうです。
また,有名タレントを使ったCMとかに多額の税金を垂れ流すんでしょうね,きっと。
そんなことしなくても,法律に従って,正当な理由なく欠席した人には「10万円以下の過料」という罰則を適用すればいいと思います。
あっという間に,ほぼ100%の出席率になりますよ。
しかし,裁判所にそれはできないでしょう。
なぜなら,裁判所は,裁判員をひたすら「お客様扱い」しているからです。
それは,決して「大事にしている」という意味ではありません。
法律の分からない一般市民である裁判員は,慇懃無礼に馬鹿にされているということです。
日本の裁判員制度の最大の問題は,実は,そこにあるのです。
~追記(2019年5月)~
毎年,特に裁判員の呼び出し時期にこのページへのアクセスが増えます。
ブログのこのページだけを読む方がたくさんおられるようですので,ちょっとだけご注意です。
このブログ「法律夜話」は,“洒落と皮肉と遊び心”の分かる大人向けのブログとして書かれています。是非,ウィットを効かせて読んでいただくようお願いします。
そうすれば,私が「現在の裁判員制度」に対してかなり批判的な意見を持っている立場であること,できもしない10万円の過料を適用しろと言っているのではなく,法律や裁判所を批判しているだけだということが,すぐに分かってもらえると思います。
(私は,埼玉弁護士会が裁判員制度の抜本的改正を求める意見書を出した際の,裁判員制度検討協議会の事務局長です。)
なにしろ,(裁判員制度を含む)法律は,常に国民(これをお読みの皆様)の選んだ代表者(=与党)が作っているわけですから,罰則付きで国民を脅す今の裁判員制度を作ったのも,それをずっと支持し続けているのも,要するに国民(これをお読みの皆様)ということになってしまうわけで……。
裁判員制度とは,国民にとって,選挙権などの参政権と同じ意味と価値を持つ「権利」であるべきです。国家権力と検察の代弁者になって人権無視をしがちな日本の裁判官たちを,裁かれる国民の側に引き戻すための監視制度でなければなりません。
これから裁判員になるかもしれない国民の皆さんには、「もしかして自分たちは,裁判所から丁寧にお客様扱いされて,結局のところ裁判官たちの手のひらの上で転がされているだけなんじゃないか?」という視点を持ってほしい,と願っています。
最後に書いた「日本の裁判員制度の最大の問題」が具体的には何を指しているか,一緒に考えてみませんか。
~追記 終わり~
TBSのドラマ「99.9 -刑事専門弁護士-」が人気です(でした)。
……最終回の放送後に今さらではありますが。
でも,予想以上に人気が出たからこそ,プロの刑事弁護人として今後も無視できないドラマになった,とも言えます。
きっと続編とか映画とかもやると思うんですよね。だって,おもしろかったから。
なにより,キムタクの「HERO」と比べると,だいぶリアルでした。
「HERO」は現実の再現度5%以下でしたが,「99.9」は30%~40%くらいだと思います。
日本の法律ドラマの中では,めずらしく良く勉強して作られた内容でした。
さて,ドラマの中ではともかく現実の日本では,「刑事専門弁護士」(刑事弁護しか扱わない弁護士)は,極めて数少ない存在です。
しかも,数少ない自称「刑事専門弁護士」(刑事専門法律事務所)が,本当の意味で実力のある刑事弁護人であるかどうかは,残念ながら何の保証もないと言えます。
また,専門とは言わないけれども実力のある「本物の刑事弁護人」も,もちろん多くはありません。
そして,「日本の刑事事件は起訴されると99.9%が有罪になる」というドラマのナレーションは,真実です。
そうすると,結果としてどうなるか?
皆さんの想像の斜め上を行くようなレベルで,日本には「えん罪」があふれているし,その「えん罪」と真っ向勝負できる本物の刑事弁護人は数少ない,ということです。要は,多勢に無勢。
だから国連で,「日本の刑事裁判は中世のようだ」と笑われてしまうんです。
そういう国の刑事裁判では,刑事弁護人の必死の努力にもかかわらず,ちょっと痴漢に間違われただけでも人生が崩壊するほどの悪夢になります。映画「それでもボクはやってない」のように。
そうなってしまう理由は明らかです。
国選弁護事件の報酬が低すぎるからです。
……と,いきなり断言すると,論理の結びつきがわかりにくいですよね。
つまり,こういうことです。
日本の刑事弁護のほとんどが,国選弁護事件です。全体の8割~9割が国選です。
なぜなら,ドラマと違って現実の被疑者・被告人やその家族は,私選弁護のための弁護士費用を支払えないことが多いからです。
特に,殺人事件や強盗致傷事件など,死刑や無期懲役が求刑されるような重大事件ほど,その傾向が顕著です。
重大で弁護するのが難しい事件ほど,私選弁護の割合は著しく減少します。
そして,国選弁護で国から弁護士に支払われる弁護士報酬は,極めて低額です。時給にしたら数百円以下になってしまうとか,普通です。
それでも,赤字にならずに済んだらマシなほうでしょう。
中でも時間のかかる難解な刑事事件を国選弁護人として引き受けると,真面目に弁護すればするほど,大赤字ということもあります。
ドラマ「99.9」の松潤のような真剣な弁護活動を,もし国選弁護人として続ければ,報酬を得るどころか弁護士自身の貯金を取り崩して生活することになるでしょう。
かといって,重大で困難な事件の多くが国選事件である以上,低報酬の国選事件に自ら挑み続けなければ,刑事弁護人としての本物の実力は養われないのです。
しかも,運が味方しなければ,まず勝てません。頑張っても頑張っても,負け続けるんです。
一体,誰がそんな無茶苦茶な仕事をやりたがるでしょうか。
明らかに「無理ゲー」です。
だから,必然的に刑事弁護は多勢に無勢になり,「99.9%有罪」という現実が日本で固定化したのです。
しかし,そういう圧倒的に不利な状況の中で,弁護士の中でも数少ない奇特な人たち,すなわち「本物の刑事弁護人」たちは,長年にわたり採算度外視で刑事事件に情熱を傾け,知識を蓄え,知恵を巡らし,経験を積んできました。
まさにドラマのとおりに,0.1%の真実を追い求めてきたのです。
彼らがそれをなしえたのは,決して,刑事事件を専門にしたからではありません。それでは,誰も食べていけませんでした。
ほかの普通の弁護士と同じように様々な種類の民事事件を多様にこなしながら,その一方で,ただただ正義感のみによって,国選弁護をはじめとする刑事事件に取り組んできたのです。
今でも,それは基本的に変わっていません。
全国に散らばる「本物の刑事弁護人」たちの多くが,文字通りの「刑事専門弁護士」ではありません。
刑事弁護に対する情熱と知識と知恵と経験をすべて備えていますが,刑事事件だけを受任するわけではないのが実情です。
それでも,警察・検察の有する圧倒的な資金力と人海戦術に創意工夫で対抗し,偏見に凝り固まった裁判官の脳みそをほじくり返すために,最後まで「事実」にこだわり続けるのです。
ドラマでは,松潤の演じる深山弁護士を「超型破りな弁護士」と紹介していますが,刑事弁護人としては,ごく普通でしょう。
もっとも,刑事弁護人たちは弁護士の中でも変わり者集団であるという意味なら,その通りかもしれませんが……。
実は,「99.9」が刑事弁護のリアルさを残しながらもエンターテイメント性を打ち出せた設定の秘密が,ここにあります。
深山弁護士(松潤)のやっている刑事弁護は,脚色はありますが,本物の刑事弁護人がやること,考えることと,それほど変わりません。
ただ,現実にそれをやるためには,私選弁護のための多額の弁護士費用を要するのが普通です。つまり,依頼者が弁護士費用を用意できない限り,私選弁護の依頼は成立しません。
では,国選弁護人でいいかというと,国選では弁護士を依頼者が選べないのです。
そうなると,肝心の深山弁護士がその事件を受任できないことになります。
そこだけはリアルにできないのです。
そのため,ドラマでは,斑目法律事務所という日本有数の巨大ローファームが採算度外視で刑事事件専門チームを新設し,事件の依頼者も事務所も,弁護のための資金力には一切問題がないという非現実的な設定になっているのです。
刑事弁護は,捜査機関によって見逃された事実を丹念に追求するのが基本です。
その基本をよく押さえた,なかなか見応えのあるドラマでした。
もちろん,見ていて思わず「コラコラ」と言ってしまった突っ込み所はたくさんあったのですが,最終回記念ということで,今回は褒めて終わります。
以前,この『法律夜話』のブログに「弁護士の法律相談料は,占い師の見料と同じだ」という話を書いたのですが(「法律相談,わかんねェだろうナ。いぇ~い。」参照),おもしろい観点だと評価してくださる方と,「んなわけねーだろ!」と怒る方(弁護士)に分かれました。
占い師との比較はともかく,法律相談料については,ご相談者側にも弁護士側にも色々な意見があるようです。
特に,最近は「無料相談」をする弁護士や法律事務所が増えてきて,ご相談者の皆様も,まずは無料で相談できるところを探すという方が多くなってきたように思います。
やっぱり,30分5000円とか1時間1万円とかいった料金は,決して安くはないですよね。
でも,ご相談者の方に「高い」と感じさせてしまうのは,弁護士の法律相談技術の不足という場合もあります。
専門性の高い弁護士による適切な法律相談を受けることにより,相談だけで事件を解決できてしまったり,解決へのヒントが得られたりすれば,決して法律相談が「高い」とは感じないはずです。
一方,確かに無料相談は増えていますが,実は「無料」にも2種類あります。
1つは,弁護士にとっても本当にタダ働きになるような無料相談です。ご相談者はもちろん,ほかの誰からも費用が払われません。
弁護士が,ボランティア活動として法律相談をすることはあります。顧客サービスとしての無料相談もあります。それは一向に構いません。
しかし,職業,仕事としての本来の法律相談は,ボランティアでも単なるサービスでもありません。それ自体がプロフェッショナルな技術なんです。
すべての(初回)法律相談を無料にしている弁護士や法律事務所もありますが(弁護士以外の士業でも同じですが),当然,その相談から事件を受任できない限り収入に結びつきません。
そういった無料法律相談は,途中で「これは受任につながらない」と分かってしまった時,はたしてどうなるのでしょうか?
……時々,こういった鋭い質問を受けます。
私自身は,無料だろうが何だろうが相談を引き受けた以上,最後の最後まで真剣に回答します。「事件に区別なし」は,私の弁護士としての原点のひとつですから(「3つのルール」参照),断言できます。言えば言うほど嘘っぽくなるのでこれくらいでやめときますけど,本当です。
そして,私が信頼を寄せる仲間の弁護士たちなら,たぶん同じように考えるだろうと思います。だから,無料が全部ダメなんてことはありません。
なので,それほど気にしなくてもいいんじゃないでしょうか?
……でも,私自身はとっても疑り深い性格なので,もし自分が本当に困って弁護士に相談する立場になったとしたら,知らない弁護士がタダ働きでやっているような法律相談なんて,怖くて受けられないかもしれません。
もう1つの無料相談は,ご相談者が無料なだけで,弁護士には相談料が入ってくるタイプです。
地域や組織などによって違いますが,今の埼玉の場合,市役所や区役所での相談とか弁護士会での相談などの一定割合が,ご相談者は無料でも弁護士には後から費用が支払われるタイプの無料相談です。
法テラス(日本司法支援センター)の民事扶助制度を利用した無料相談の場合も,これに当たります(法テラスから弁護士に相談料が払われます)。
この場合は,無料相談とは言いながらも,弁護士による助言行為が専門的技術として一定の評価を受けています。相談で事件を受任しなくても,それは変わりません。
先ほどの鋭い質問に,誰でも堂々と「大丈夫!」と答えられるわけですね。
もし私だったら,同じ無料相談なら,せめてコチラを選ぶかなぁ。
……ただ,通常のご相談者にとっては,その無料相談で弁護士に費用が払われているかどうかなんて,まったく分かりません。
しかも,こういうタイプの(弁護士に報酬の入る)無料相談の割合は,今,どんどん減ってきています。
一般の方々は無料相談に2種類あるというカラクリを知りませんから,同じように弁護士の法律相談を受けられるなら,無料がいいと思うのは当然です。
けれども,弁護士が増えて選択肢が増えてきた結果,どの弁護士のどういう相談を受けてどういう結果になるか,すべてご相談者の自己責任ということになりかねないのです。
真実を知らないまま選択を誤ることがないように,十分気をつけてください。
ちなみに,弁護士にはお医者さんのような国民の税金をつぎ込んだ保険制度がありませんから,法律相談が高すぎるというのは,本当は間違いです。
皆さんが風邪でお医者さんにかかって,30分の待ち時間,初診料込み3割負担で計3000円を支払ったとすると,実際には,たった3分の診察でも医療費は1万円です。
30分5000円の法律相談とは,比べものにならないくらい高いのです。
また,これも最近ですが,「弁護士保険」が少しずつ広がってきています。
今はほとんどが交通事故の任意保険の特約ですが,ついに一般民事事件の弁護士保険も出てきました。
私も,これまでに弁護士保険制度を利用したご相談や受任を実際に行っています。
まだ多少使いにくい部分もありますが,利用価値の高い制度です。
ただ,弁護士保険制度には,保険契約時は気付きにくい大きなリスクがあります。
それは,保険会社は弁護士費用を払ってくれるだけで,適切な弁護士を探してくれるわけではない,ということです。
LACなどの弁護士会を通じた紹介制度等もありますが,基本的には名簿順に名前を教えてくれるだけなのです。
本当に自分に合った良い弁護士を探そうと思ったら,その都度,ご自身で見つけ出して,法律相談して,契約しないといけません。
この面倒とリスクを避けられる唯一の選択肢が,自分の顧問弁護士を持つことです。
かかりつけの医師を持つように信頼できる顧問弁護士を持ち,また,保険を使うよりもずっと気軽に「無料」で質の高い法律相談を受けられる……。
そんな自分だけの顧問弁護士というスタイルが,もっともっと世の中に広がっていくといいなと思います。
12月19日,覚せい剤使用疑惑(覚せい剤取締法違反容疑)で再逮捕されていた歌手のAさんが釈放されました。
覚醒剤反応が出たと報道された尿については,「尿の代わりにお茶を入れた」ということでした。
警察発表によると,「本人の尿と確認できなかった」ために,嫌疑不十分で不起訴となったそうです。
この事件,私のような刑事弁護を専門的に取り扱う弁護士にとっては,おおよそ何が起こったか想像が付いてしまいます。
ところが,一般の方には理解しがたい点や「常識(?)」に反する内容が多いため,ネット上はもちろん,マスコミ報道でも様々な誤解や憶測が流れています。
私自身は,Aさんの弁護をしたわけでもないし,具体的に今回の事件の真相についてコメントできる立場にはありませんので,あくまで一般論としてですが,身近な方からよく質問される疑問を分かりやすく解説しておこうと思います。
1)「尿の代わりにお茶を出した」という弁解の疑問
「尿の代わりにお茶を出すワケがない」とか,「本当だとしたら,そんなことを考えつく時点でおかしい」とかいった意見が多いようですね。
しかし,「採尿の際に,警察の目を盗んで,尿の代わりにお茶を提出したから,陽性反応(覚せい剤を使っているという反応)が出るわけがない」という話は,実のところ何年も前から覚せい剤事件の被疑者・被告人の間でよく使われている,有名な弁解方法のひとつなんです。
私もこれまでに何度か聞かされました。
こうした弁解には流行・廃りがあって,ある特定の時期には,別々の事件なのに同じ種類の弁解ばかり出てくる傾向にあります。なぜかというと,留置場や刑務所の中では,「最近,○○という弁解で釈放された(無罪になった)やつがいるらしい」というまことしやかな情報が流れるからです。
そして,この数年で一番流行っている弁解が,「尿の代わりにお茶」なんです。警察に捕まった人でも,取調べ中などにお茶は飲めるからです。
もちろん,この手の話は,ほとんどが嘘情報です。そんな弁解だけで,釈放(無罪)になんかなりません。
刑事弁護は,それほど簡単なものではないのです。
ただ,逮捕されたことのある人なら,留置中にどこかで「尿の代わりにお茶」という話を聞いていてもおかしくないわけです。
ですから,「自宅」で尿の任意提出を求められた場面でなら,自分では思いつかなくても,たまたま知っていたのでそのとおりにやってみたということは,あり得ます。
2)お茶から覚せい剤反応が出たことへの疑問
実際に尿の代わりでお茶が提出されたとして,お茶から覚せい剤反応が出ることがあるのでしょうか?
これについては,マスコミ報道でも,かみ合わない(間違った)議論ばかりなされていますね。正しくは,覚せい剤使用の反応が出るという結果を,2つの意味に分けて議論しなければいけないのです。
第1に,科学的意味から言えば,お茶から覚せい剤の成分が検出されることはありません。
テレビでわざわざ実験してみるまでもない。当たり前です。アホくさい。
ちなみに,お茶に覚せい剤そのものを混ぜても,ここでいう陽性反応とは違った結果になります。
正確には,覚せい剤成分を検出するのではなく,覚せい剤を使用した結果を成分検出するからです。
第2に,法律的意味から言えば,お茶から覚せい剤成分が検出されることは,あり得ます。
あり得るんです!
考えられる可能性は無数にありますが,現実によく起こり得るのは,次の3つのパターンです。
a.混入(誰かがお茶に反応成分を入れた,成分の付着した未洗浄の容器を使った,など)
b.取り違え(鑑定に際して,別人の尿と取り違えて検査した,など)
c.虚偽記載・偽造(覚せい剤反応は出ていないのに出たかのような鑑定書を書いた,など)
これらすべてについて,警察(検察)の故意と過失の両方があり得ますし,現実にも過去に何度もありました。
鑑定は科学的ですが,鑑定をするのは人ですから,こういうことは常に起こり得るのです。常識には反するかもしれませんが。
税金を使った捜査で,こういう馬鹿げた疑問が生じないようにするためには,証拠の採取と保管,そして保管した証拠が開封されて鑑定し終えるまでの状況が,ビデオ撮影などによって記録化されること(「証拠採取と鑑定の可視化」),鑑定資料の残りを適切に保存して再鑑定を保証すること,再鑑定が保証されていない鑑定の証拠能力を一律に否定すること,などが法律できちんと定められる必要があります。
けれども,現状では,警察の内規等により尿鑑定の残りはすべて廃棄することとなっています。(「提出された尿が微量だったから再鑑定できなかった」という警察発表の報道がありましたが,真っ赤な嘘です。常に捨てているから,再鑑定なんて,したくてもできないのです。)
ですから,こうした疑問のどれかを否定できない捜査状況になってしまったとしたら,それは単純に,何度も,何度も,何度も問題を起こし続けているのにまったく反省のない警察,検察が悪い,ということなのです。
しかし,この事件の影響で「尿の代わりにお茶を出した」などと弁解する被疑者・被告人が今まで以上に増えるのかと思うと,本当に困りますね……。
警視庁さんが,刑事弁護人の無理ゲーな仕事をまた増やしてくれました。
それでは皆様,素敵な新年をお迎えください。
また来年も,よろしくお願いいたします。
もう、これを書かないわけにはいかない状況となりました。
共謀罪の話です。
共謀罪の危険性や不当性については、ネット上だけでもすでに様々な情報があるはずで、私がここで屋上屋を重ねる必要はないと思ってきました。
しかし、残念ながら、正しいことが正しいというだけでは通らないこの世の中です。
法律の細かい議論は、一切省略します。そういうのは、よそで読んでください。(……法律ブログなのにね。)
でも、監視社会だとか、一般市民が対象になるかとか、対象犯罪が277個もあって多すぎるとか、そんなのどうでもいいんですよ。
あ、いや、どうでもいいは言い過ぎですけど、そういう難しいことは後回しでいいんです。
市民の声なき声の最大公約数は、要するに、
「共謀罪になんとなく不安はあるが、テロ対策のためには必要なのではないか」
ということなんだと思います。
共謀罪推進派の政府や右寄りの人たちは、これをもっと極端にして、
「日本国民を守るためのテロ対策の法律に反対するやつらは、左の売国奴だ!」
という論調です。
ここでは、政府や官僚など、嘘つきの確信犯でこれを言っている人たちは無視します。知っていて嘘をついている人に、それは嘘だと言っても何も響きません。
そうではなく、「テロと戦うためには共謀罪が必要だ」と本気で誤解している(騙されている)人たちが、なぜか、本当になぜなのか分かりませんが、とにかくすごくたくさんいる、ということが問題の核心なのです。
共謀罪法案(組織的犯罪処罰法改正案)は、嘘つきどもによって「テロ等準備罪」法案と呼ばれていますが、テロ対策目的の法律ではありません。
たいていの法律は、第1条に法律の「目的」をはっきり書いています。共謀罪法案もそうです。
そこに、「テロ」という言葉は、ありません。
「条約を実施する」とか、「組織的に行われた殺人等の行為に対する処罰を強化」することとかが「目的」として書かれています。
法律論は省略すると言ったのでこれ以上はやめますが、法律案に書かれている「目的」自体も嘘です。
そして、「テロ対策」は、嘘だとしてもさすがに書けないくらいに、この法律とは本当に関係ないんです。
でも、法律の目的に「テロ」はありませんが、「組織的な犯罪」という言葉が出てきます。
そこで、「テロ集団も組織的な犯罪に含まれるから、共謀罪はテロ対策になるんだ」と、ひたすら言い続けている大嘘つきが、世の中にたくさんいるわけです。
どうか皆さん、こんなアホな話に1ミクロンでも騙されないようにしてください。
当たり前ですけど、テロは、集団でしなくても、一人でやってもテロですからね。テロをやったのがテロ集団でなくても、やったことがテロならテロですからね。
本当にテロ対策をするのが目的なら、共謀罪ではなく、組織犯罪対策でもなく、テロを防止してテロ集団を取り締まる「テロ対策法」を作るべきですからね。
テロ対策が目的ではないからこそ、テロ対策法ではなく、共謀罪なんですよ。
政府主導の法制審議会ですら、治安維持のために共謀罪を作る必要性はない(立法事実がない)と結論されています。もともと、いらない子なんです。
ましてテロ対策になるなんて、公式の文書では誰一人として言ってない。
ついでに、条約締結に法律が必要だとも言ってません。
よく聞くと、「(たぶん)役に立つ(だろう)」と言っているだけなんです。
本当の目的はそんなことではありません。それを言うと見向きもされないから、なんとか嘘の理由をつけて騙そうとし続けているんです。
彼ら嘘つきども(のうち頭の良い部類の人たち)は、「犯罪組織=テロ集団」だとは言ってません。「組織的犯罪=テロ」だとも言っていません。
そう言ったら、明らかに嘘をついたという公式の記録が残りますから、そうは言いません。
テロと組織的な犯罪は、基本的に関係ないです。彼らもそれは分かっています。
だから法律の「目的」に書けないんです。
つまり、彼らは、強行採決してでも通したい本当の目的は言わずに、
「誰でも彼でも片っ端から捜査対象にして、えん罪でもなんでもすぐ捕まえられるようにする法律ですから、たくさん捕まえた中にはテロ集団みたいなのが入ることもありますよ。だから、結果的にはテロ対策にも効果があるはずです。」
と言っているんです。
それを聞いた素直な人たちが、共謀罪はテロ対策のための法律なんだと何故か勝手に誤解して、騙されて、その中でも特に正義感の強い人たちは、「共謀罪に反対するやつは極左の非国民だ」とかって、怒り狂って叫んでしまうのです。
あまりに可哀想すぎます。
テロ対策をしたいなら、テロ対策法を提案すればいいんですよ(もう、ありますけど)。
国民を監視したいなら監視したいと言えばいいんですよ。
信念を持ってそれが必要だと思うなら、堂々と正面から主張すればいいじゃないですか。
私は私の信念でそれに反対しますけど、自分と異なる意見を述べる自由は、最大限に尊重します。
けれども、嘘をついて国民を騙そうとする人たちに、正義はないです。
共謀罪を「テロ」という枠組みで語る限り、その人は嘘つきか、嘘つきに騙されてしまった可哀想な人です。
「プラトニック不倫」なる言葉が,テレビや雑誌やネット上で踊るようになりました。
報道された政治家たちの実際の男女関係も興味をひいているのでしょうが,それ以上に,「プラトニック・ラブ」な関係でも「不倫」になるのかという,なにやら哲学的な話題で盛り上がっているようです。
というか,本音のところで大人の皆さんが知っておきたい知識は,「プラトニック不倫」でも法的に慰謝料を取られてしまうのか,あるいは,離婚原因になるのかどうか,といったことですね。
その気持ち……,よーくわかりますとも。
だって,プラトニックでダメなら,法律は既婚者に対して,夫・妻以外に対するトキメキもドキドキも一切許さないってことに,なりかねませんからね。
(法的思考ではそうならないのですが,一般にそう思われても仕方ありません。)
ネット上では,離婚専門の弁護士による解説記事として,「不貞行為に該当するリスクはない」と言い切っているものもありました。
不貞行為は,夫婦間の互いの貞操義務に違反して肉体関係を結ぶことなので,肉体関係がなければ不貞行為に該当しないという法律の理屈です。
理屈では正しいのですが,こういう表面的な解説を簡単に信じて失敗する人がたくさんいますので,せめて法律夜話では,間違いの無いようにはっきり言います。
プラトニック不倫が不貞行為に該当するリスクは,十分にあります!
正確に言うと,これはリスクの中身の問題です。
簡単な質問です。
大人な男女が何度も同じホテルにお泊まりしていて,朝はいつも一緒に出てきて,行き帰りはずっと仲良く手をつないでいる。その写真もビデオも撮られている。
けれども,本人たちは「あくまでプラトニックな関係です」「一線は越えていません」と説明しています。
皆さんは,本人たちの話を無条件に信じますか?
この質問に対する皆さんの答えが,「プラトニック不倫」に判決を書く「裁判官」の視点での判断です。
これが裁判であれば,たとえ本当に「一線を越えていなかった」としても,裁判官は「不貞行為があったと推認される」と判決に書く可能性が,それなりに高いわけです。
つまり,真実がプラトニック不倫でも不貞行為にされていることになります。
皆さんが「プラトニック不倫」をしている側で,慰謝料請求される立場になったとしたら,「プラトニック不倫」で慰謝料が発生するかどうかなんて話は,二の次です。
まず最初の難関は,配偶者以外の異性と親しくしていることを前提に,それは「プラトニック不倫」(肉体関係が無い交際)の限度なんだと,本当に信じてもらえるかどうかの問題なんです。
そもそも,慰謝料請求をされるということは,デートを目撃されていたり,甘いメールのやりとりを見られていたり,ともかく何らかの不利な証拠を握られているわけです。
そういう状況で,簡単に「肉体関係はありません」などという言葉だけの言い訳が通用するでしょうか?
……リスク,十分すぎるほどありませんか?
先ほどのネット記事では,弁護士の発言部分が『』でくくられているので,「リスクはない」という解説は,そのままその弁護士の発言だと読めてしまいます。
法律の解釈が正しいことと,現実のアドバイスとして正しいこととは,違います。
いろいろな意味で,危険ですね。
実際のところ,弁護士が取材を受けて記者がまとめた記事には,要約ミスや言い換えミスなどが非常に多いので,弁護士の説明が間違いだったとは言えませんが。
さて次に,いわば本題として,法律的にも「プラトニック不倫」であった事実が認められるとします。
その場合,普通の裁判官なら,法律上の離婚原因である「不貞な行為」(民法770条1項1号)には該当しないと判断すると思います。
けれども,法的に慰謝料の支払義務が発生する可能性は,まだあります。
なぜなら,プラトニック不倫が「不貞行為」に該当しないとしても,「不法行為」(民法709条)に該当する可能性は,あるからです。
不法行為とは,他人の権利や法的利益を侵害して損害を与える行為です。損害を与えたら,損害賠償の義務が発生します。
プラトニック不倫でも,相手の配偶者の平穏な家庭生活を壊し,精神的な苦痛などの損害を与える可能性はあります。そうなれば,不法行為として慰謝料などの損害賠償義務が発生します。
また,「プラトニック不倫」でも離婚原因になる可能性もあります。
なぜなら,プラトニック不倫が「不貞な行為」(民法770条1項1号)に該当しないとしても,「その他婚姻を継続し難い重大な事由」(民法770条1項5号)に該当してしまう可能性は,あるからです。
ただし,肉体関係が無いのにどの程度の「損害」があるのか,あるいは,プラトニック不倫が婚姻の継続にとってどれほど重大な障害を実際に引き起こしたのかといった点は,慰謝料を請求する側で裁判官を説得しなければなりません。
これらの立証は,それなりにハードルが高いでしょう。
というか……,「プラトニック・ラブ」は,もともと肉体関係のない愛じゃありません。
「プラトニック」は「プラトン的な」という意味で,あたかもプラトンが精神的な愛だけを説いたみたいですが,プラトンはそんなこと言ってません。
哲学者プラトンは,師匠ソクラテスの言葉を借りて(ソクラテスは婦人ディオティマの言葉を借りて),当時の少年愛の習慣を前提に,こう述べています。
「まず最初に一つの美しい肉体を愛し」
「その愛をあらゆる美しいに肉体に及ぼし」
「そうしてある一人に対するあまり熱烈な情熱をばむしろ見下すべきもの,取るに足らぬものと見て」
その結果として
「心霊上の美をば肉体上の美よりも価値の高いものと考えるようになることが必要です。」(『饗宴』/岩波文庫)
つまり,美しい少年の肉体を愛することからはじめて,やがて美と愛の悟りに至る道を説いているのです。
したがって,「プラトニック・ラブ」という言葉は,極めて誤用に近い転用です。
ちなみに,プラトン自身も,少年愛に深く溺れています。
このことで,プラトンは理想を説いたけれども実践はしなかったなどと言う人がいますが,浅薄な理解だと思います。
プラトンは,自らの理想とするところを実践していたからこそ,少年愛を貫いたと言うべきなのです。
ま,要するに,最初から最後まで肉体の愛をまったく抜きにした「プラトニック・ラブ」なんてものは,言葉からしてちょっとインチキくさいですよってことです。
独立して早くも8か月が経ちました。
お陰様でたくさんの御支援と御依頼をいただき,忙しくも充実した年末を迎えています。
今年は晦日も元旦もなく仕事に立ち向かうことになりそうです。
こういうときには,あらためて自分が選んだ弁護士という道について,ちょっと考えてみたりするのです。
弁護士という職業は,良くも悪くも特別に見られるところがあります。
もちろん,エライからとか,エリートだからとかではありません。
このところのように弁護士の不祥事が続くと,エラくはないがエロいなどと言われることがありますが(別に否定しませんが),そういうことではないです。
何と言っても,かつての司法試験が「現代の科挙」と呼ばれるほど難しくて,弁護士の絶対数も少なかったことで,希少性が高いと思われていたのが第一の理由でしょう。
もっとも,私が司法試験に合格した後,2004年にロースクール(法科大学院)制度が出来てから一気に様子が変わっていき,2012年には旧司法試験が完全廃止されて新司法試験のみとなり,司法試験が以前よりもかなり受かりやすくなりました。
合格者の人数も大幅に増やされ,今は弁護士の数も相当増えています。
なので,この第一の理由については,多少状況が変わりつつあります。
今の司法試験も国内最難関資格のひとつであることに変わりはありませんが,今後さらに状況は変わり続けるでしょう。
ちなみに,私は,依頼者となる市民のために,弁護士という職に就くための能力的なハードルは出来るだけ高くあるべきだと思っています。
司法試験を簡単に受かりやすくして合格者を増やし,それによって弁護士を増やすなどという現在の法曹養成制度には,反対です。
……が,今回はその話でもありません。
試験制度や人数がどうこう言う前に,「弁護士」という資格と職業が何となく特別な感じを持つのは,実は日本国憲法に根拠があるのです。
憲法には,前文のほかに本文が99か条あります。補則4か条を含めると,全部で103か条です。
言い方を変えると,日本という国を成り立たせている根本的な法律は,たった103か条しかありません。
その数少ない憲法の条文の中で,1つの条文(1か所)に「弁護士」が登場し,別の2つの条文(3か所)に「弁護人」が登場します。
「弁護士」が出てくるのは,第77条です。
第77条
最高裁判所は、訴訟に関する手続、『弁護士』、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
「弁護人」は,第34条と第37条に登場します。
第34条第1項
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに『弁護人』に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその『弁護人』の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第37条第3項
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する『弁護人』を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
そして,憲法が規定する「資格を有する弁護人」とは,原則として,職業としての「弁護士」に限られているのです(刑事訴訟法第31条第1項)。
例外は特別弁護人制度ですが,簡易裁判所及び地方裁判所に限られるうえ,実務上は滅多に選任されることがありません。
さて,この世に職業は数あれど,憲法に登場する職業となると本当にごくわずかです。
天皇と摂政を別とすると,職業と言えそうなのは,(1)内閣総理大臣,(2)裁判官,(3)国会議員(衆議院議員,参議院議員,議長),(4)国務大臣,(5)外国の大使,(6)外国の公使,(7)公務員,(8)司法官憲,(9)弁護士(弁護人),(10)検察官,(11)地方公共団体の長,(12)地方議会の議員,(13)地方公共団体で法律の定めるその他の吏員,だけです。
そして,これら憲法に登場する職業の中で,唯一の民間職・民間人が「弁護士」です。
そもそも憲法は,国家や公務員の権力から国民を守るためにある法規範です。基本的に,国家や公務員に対する国民からの命令なのです。
したがって,本来,憲法に登場するはずの職業は,国家を構成する人々,すなわち,政治家を含む広い意味での公務員たちということになります。
それに対して,弁護士は民間人です。憲法上,むしろ国民側にいる者です。
なぜ,弁護士だけが民間職でありながら憲法に登場するのでしょうか。
それは,弁護士が,国家や公務員の権力から国民を守るための最後の砦の役割を果たす職業だからです。
なかでも,国家が国民に対して最も直接的に牙をむく場面が,刑事裁判です。
国家権力とは,ある日突然,暴力で国民を拘束して牢屋に閉じ込め,そのまま死刑にして命を奪うことが出来るという圧倒的力のことだからです。
それを防ぐ立場にあるのは,唯一「弁護人」だけです。
他の誰も,間違った刑事裁判を正すことができません。
ただ見ていることしかできません。
つまり,弁護士が特別な職業である意味とは,国家権力と対峙できる唯一の専門職であり,刑事弁護人となることができる唯一の資格であるからなのです。
昔,私がまだ学生だった頃に出会った弁護士さんが,「刑事弁護をやらない弁護士なんて本当の弁護士じゃないよ」と,冗談めかして言っていました。
その方は,知る人ぞ知る本物の刑事弁護人の一人でした。
素直に「すげー。」「かっこえー。」と思ったものです。
今では,その私が,弁護士向けに刑事弁護の講義をする立場になりました。
そこで,講義の中で,「刑事弁護をやらなければ本当の弁護士じゃない」などと,恐る恐る言ってみたりします。
とは言っても,お金にも名誉にもならない刑事弁護をほとんどやらない弁護士は,日本に数多いのです。
多数の弁護士を前にして,「お前らみんな本物の弁護士じゃない!」などと大声で言い放つのは,さすがに蛮勇です。
それで,「あくまで学生の頃に聞いた話ですけど……」と断ってから,まるで人ごとのように話しています。
言いたいことがあるけど,はっきり言うほどの勇気が無いときは,人のせいにするといいのです。
正しいことなら,言わないよりだいぶマシだからです。
ただし,口にした責任は,自分に対して取りましょう。
……という話も,昔どこかのエロい先生から聞いた気がします。
それでは皆様,どうぞよいお年をお迎えください。
アネモネ法律事務所は、2018年3月27日から、いよいよ開所2年目に入ります。
あっという間の1年でした。
特に昨年終わりころからはとても忙しく、体調も崩しがちになって、このブログの更新もすっかり遅れてしまいました。
ごめんなさい <(_ _)>
この1,2年の法律夜話では、更新頻度を下げていく代わりに長めのブログを書いていましたが、それだと、どうしてもまとまった時間がとれず遅れがちになってしまいました。
今後は、短めでも多めに更新していこうかな、と思います。
あらためてよろしくお願いします。
ところで、つい先日、ドラマ「99.9 刑事専門弁護士 SEASON 2」が最終回を迎えました。
ところどころにおふざけを交えつつも、刑事弁護の現場感覚をかなり丁寧に描いていて、やっぱりおもしろかったですね。
ただ、このドラマのタイトルと内容には、大いなる矛盾があります。
タイトルの「99.9」は、日本の刑事事件における裁判有罪率(起訴された際に裁判で有罪になる確率)を示しています。この数字は事実です。
そのうえで、このドラマは、最後の0.1%まで諦めず事実を追い求めていく弁護士たちの姿を描いた物語である、というのです。
つまり、0.1の無罪、えん罪事件だけを扱うドラマなんです。「私がやりました」という依頼者は、一人も出てこないのです。99.9の事件は、扱っていません。
ん~~??
それだったら、このドラマは「99.9」ではなく、
「0.1」
というタイトルであるべきじゃないですか?
0.1%の無罪、えん罪を救うことは、大事です。
本当に、本当に、大事です。
でも、残り99.9%のすべての刑事裁判において、たとえ、その事件で実際にその人が犯人であるとしても、どの事件にも必ず、警察や検察が見逃している被疑者・被告人に有利な事実があり、様々な人間ドラマが隠れているんです。
それを大事に扱えない弁護人が、隠された0.1の真実に迫れるはずがないんです。
「0.1」を本当に大事に思うからこそ、目の前の「99.9」に日々正面から向き合い続けることが、ドラマではない現実の世界の刑事弁護なのです。
……あんまり短くないですね。
今年6月22日に有罪判決のあった裁判員裁判で、「刑事免責制度」が日本で初めて適用されました。
6月1日から施行されていた制度ですので、初適用までに少し間があったことになります。
とはいえ、今後はどんどん適用されていくことになるでしょう。
私も先日、といっても3月のことですが、日弁連からの派遣講師として、茨城県弁護士会(水戸)と埼玉弁護士会(浦和)で、改正刑事訴訟法に関する講義をしてきました。
これは、全国一斉に行った弁護士向け研修会の第二弾に当たり、2016年の第一弾に引き続いて講師をお引き受けしたものです。
今回は、いわゆる「司法取引」や「刑事免責」制度の導入に絡んだ改正法の講義だったのですが、なにしろ今まで日本になかったまったく新しい制度です。
こんな制度が始まると、日本の刑事裁判は一体どんなことになってしまうのか。刑事事件を扱う弁護士なら、誰もが気になるところです。
講義を受講していただいた弁護士は、両方の研修会で計200名を超えました。
最大の問題は、その時点でまだ一度も実施されていない法律と制度について、講師のほうも実は本当のことがよく分からない、ということでした。
とにかく世間から注目されているのは、司法取引です。
「捜査・公判協力型の協議・合意制度」というのが条文に素直な呼称ですが、長いうえに分かりにくくてアホくさいので、講義でもそんな呼び方はしませんでした。
政府は、司法取引ではなく「合意制度」と呼べと言っていますが、誰も聞く耳を持っていません。
司法が取引しているのだから司法取引なんです。
「司法取引」には大きく分けて2種類あります。
自分の罪を認めることで自分の刑を軽くしてもらう制度(自己負罪型)と、他人を売り渡すことで自分の刑を軽くしてもらう制度(捜査・公判協力型)です。
日本は後者ですね。
要するに、「自分が罪をまぬがれるために、どんどん他人の罪を証言しましょう」という制度です。
……いやいや、普通に考えて、そんなヤツの証言、そもそも信用できるわけがないじゃないですか。
非常に問題の多い制度、というかもう、完全にふざけた話なのです。
結局、実際に使われる場面は、限られるでしょう。
これに対して、「刑事免責」への注目は低いです。
弁護士の中でも、よほど刑事弁護と改正法に精通していない限り、刑事免責について十分な理解がありません。
しかし、今回の改正でよく使われることになるのは、司法取引ではなく刑事免責なのです。
誤解されていることが多いですが、最初に書いた事件で適用されたのも、司法取引ではなく刑事免責です。
刑事免責は、黙秘権や供述拒否権を奪って強制的に証言させる制度です。
その代わり、しゃべった内容をしゃべった人の裁判で証拠に使うことはできません。
それならいいんじゃないか、と思うと間違いです。
実は、刑事免責にも2種類あります。
しゃべった内容に関する事件では訴追されないという制度(事件免責)と、しゃべった内容を証拠にできないだけの制度(供述免責)です。
日本は後者ですから、無理矢理しゃべらせた内容をヒントにして後付けで捜査した証拠は、有罪証拠として使えるのです。
しかも、協議も合意も不要で、対象事件の限定もなく、検察官が一方的に強制できます。
つまり、単純に「黙秘権を無意味にするための制度」として使える、ということです。
刑事免責制度は、日本の刑事司法に新たな汚点を刻みつけることになるでしょう。